――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(9)
鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)
日本人と中国人の間で互いの“意志”を的確に仲立ちできる言葉は日本語か、中国語か、それとも英語か。双方の英語力が同程度なら、やはり英語が無難だろう。もちろん日本語でも中国語でも構わないと思うが、その場合の必須条件は互いが相手の文化的背景を相手以上に知っておくことだろう。一知半解式の相手理解では、所詮は“宴会の座興”といった程度の会話に終わってしまい、行き着く先は誤解であり憎悪であり嘲笑ということになりかねない。
だからこそ、「同文同種」などという戯言で世間を誑かしてはダメなのだ。「一衣帯水」だの「子々孫々にわたる友誼」だのといった類のホラ話は断固として口にすべきではない。
さて鶴見は王寵惠との話を終え、「自分は北京に來て、初めて頭のいい人に會つたと思」い、次に会見した王正廷に対しは「自分は北京にきて、初めて堅いものにぶつかつたと言ふ感じがした」と呟く。
「頭のいい人」の王寵惠に対するに「堅いもの」である王正廷は1882年に浙江省寧波で生まれ、王寵惠と同じようにキリスト教牧師の家庭で育ち、一貫して英語教育を受け、20代前半には英語教師を務めている。中華キリスト教青年会の要請で日本に留学し、孫文の中国革命同盟会に参加した後、1907年には教会の支援でアメリカへ。ミシガン、ィェールの両大学で法律(国際公法)を学ぶ。1911年夏に帰国し、革命後に成立した中華民国政府の歴代政権に参画する。
1919年のパリ講和会議に全権代表として参加。ドイツが山東省に持つ権益を日本が継承することに最も強く反対している。その後、デン・ハーグの常設仲裁裁判所仲裁人に就任。1922年末には短期間だが代理国務総理。1923年3月から1年間、対ソ連交渉に当たる。
1928年には国民政府外交部兼国民党中央政治会議委員として済南事件の交渉に臨むが、日本への弱腰を指摘するデモ隊によって自宅を襲撃された。1931年の満州事変に際しては対日交渉に当たったが、学生デモ隊から襲撃を受け重傷を負い外交部長を辞任。
1936年8月から38年9月まで駐米大使。政界引退後は中国紅十字会会長、交通銀行董事、太平洋保険公司董事長など。晩年を香港で送り、1961年に没。
ところで日米開戦直後の昭和17(1942)年3月に中央公論社から出版された『支那問題辭典』の収められた「附録 人名辭典」では王正廷は概略で次のように紹介されている。
――北洋大学卒業後、日本留学を経て渡米し、ミシガン、イェールの両大学卒。辛亥革命に参加。1919年のパリ講和会議に全権代表として参加。山東還付問題につき大いに活躍。帰国後、1920年に一時実業界(貿易・繊維会社経営)するも失敗。1922年の山東交渉に当たっては外交総長(汪大燮政権)として、山東協定に調印。1928年には国民政府外交部長として済南事件の処理に当たる。その後、国民政府委員、国民党中央執行委員など党と政府の中枢に。1931年の満州事変後、政府の外交政策に反対する学生に襲撃され重傷を負い外交部長辞任。国民党文治派の政学会系。1936年に駐米大使に就任するも38年に辞任。39年5月に英国訪問の後、同6月に帰国――
ここから判断して、当時の日本では王は一貫して対日交渉に当たり、満州事変処理に際しては学生に襲撃されるほどの不興を買っていたと見ていたことになる。
ところで鶴見が王正廷を訪ねたのは1922(大正11)年5月のことだから、デン・ハーグの常設仲裁裁判所における仲裁人の任務から離れた後、魯案督弁というポストに就き山東半島に関する日本との交渉に当たっていた頃のことだ。
その後の王正廷の軌跡も知った上で鶴見とのやり取りを考えるのも、一興だろう。《QED》