――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(7)鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

【知道中国 1913回】                       一九・六・念一

――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(7)

鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

 先ず現地入りして目についた盛んな教育熱について訊ねると、「それは全く外國の刺戟であります。このまゝではいけないと言ふ、強い感じがみんなの頭に映じて來た」からであるとの返事だった。

 次いで以前から抱き、多くの人に質したが「充分滿足な答が得られなかった」疑問である「新聞も發行部數少く、又文字のあるものの少ない支那で、どうして輿論が作られるの」か、を問うた。

 すると「支那の輿論と申すものは、なにも、支那人全體が出さずともよいので、支那中の指導者の多數が考へるところが輿論となり、それに逆らふものが、民論の敵として仆されるのであります」。「我國の民論」が大きな影響力を持つことについては「一寸説明するのは困難」だが、「兎に角、民論の後援を得て居るものが、常に勝利を占めているのは事實であります」と。

ここでハタと疑問を持った。かりに王の考えが正しいなら、ひょっとして日本においては「支那の輿論」と「民論」とを混同していたのではなかったか。いわば彼の国においては「輿論」と「民論」とは必ずしも同じものではないうえに、「民論」の方が「輿論」に較べ国を動かす力――それは往々にして抗し難い破壊力を伴うだろう――が圧倒的に強いということではないか。

たとえば文革時、共産党中枢を押さえていた劉少奇や�小平を核心とする勢力の“合理的思考”に基づく考えを「輿論」だと思い込んでいたゆえに、毛沢東が劉少奇を「資本主義の道を歩む党内に巣くった最大の反革命分子」と糾弾した理由が判らなかった。だが毛沢東に煽られた「民論」が劉少奇らの「輿論」を完膚なきまでに粉砕してしまった。

鶴見は「それでは、その民論の指導者とあなたの言はれるのは何でありますか」と質す。

「それは、先ず學者、學生、それから各地の實業家であります」。だから「支那の民論の方向を知らうと思つたら、學生の思想と、各都市の商務總會の意見とを注意して、見て居られゝば解ります」。それというのも「多くの民衆が此等の人の意見に從つてゆくのであります」からである。では、なぜ学生の言動が「民論」となって民衆を衝き動かすことになるのか。「實際、我國に於ては、學生は特殊の地位を占めて居るので、學生の意見と申すものは、?々國論となりますから、是れは輕視することは出來ません」。

なぜ王はかくも「明晰な具體的な意見も述べる」のか。それというのも「この人は始終、外國語で物を考へる習慣のある人」であり、であればこそ「他の支那人とは全く異つて」いることになる。かくて「數日前會見した政治家たちの無學無思索なる似而非民主政治論に、無限の輕蔑を感じた自分は、王寵惠氏の淀みない話を聞いてゐるうちに、次第に支那の將來に對する希望が、胸に甦つて來ることを感じた」のであった。

次いで鶴見は「人口問題について、御高見を伺」った。「支那が經濟的に發達したら支那の人口は今日の倍にも三倍にもなりはしまいか」。そうなったら人件費は依然として安く抑えることができる。そこで「支那の低廉なる勞働が世界の脅威として存在することになりはしまいか」。その場合、「世界の一國たる責任」をどのように果たすのか。すると「まァ産兒制限論も追々は支那に徹底して參りませう」と「王寵惠は苦笑し」するばかり。

「支那の低廉なる勞働が世界の脅威として存在することになりはしまいか」との危惧は、1世紀ほどを経た21世紀初頭の現在、現実問題となった。鶴見がこのような考えを持った背景を考えるに、新渡戸稲造や岳父に当たる後藤新平に随行して海外を歩き、「始終、外國語で物を考へる習慣」を持ち、王と同じように両国関係に処したからに違いない。《QED》


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