――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(2)鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

【知道中国 1908回】                       一九・六・仲一

――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(2)

鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

 1911年の辛亥革命によって清朝は崩壊し、アジアで初の立憲共和制のカンバンを掲げた中華民国が新たに誕生したものの、混乱は募るばかり。中華民国政府を名乗りはしたが、全土を統一しているわけではない。国内では各地に軍閥が割拠する一方、列強諸国による資源と利権の分捕り合戦は止まない。まさに諸橋の言う「破国」である。

 新文化運動の担い手たちは「破国」の背景に伝統を見据え、伝統の柱である儒教と対決することで新しい社会を構想した。だが数千年の間、民族を骨がらみに飼い馴らしてきた伝統を簡単に一掃できるわけがない。

 これまで読み進んできた紀行文の書き手の多くは視点の軸足を伝統に置き、時代と伝統の齟齬ぶりを語っていたように思う。だが鶴見はそうではなさそうだ。むしろ伝統によって形作られてきたものを「偶像」と見做し、その「偶像」を破壊しようとする試みの中に新しい時代の息吹を見いだそう。この動きを世界文明の中心が大西洋から太平洋へ――世界文明の担い手が西欧民族から東洋民族へと移る世界史的大転換の中で読み取ろう。支那が「太平洋の樞鍵」としての日本と「和」し、世界史の新しい時代である「太平洋時代の最大因子」として応分の働きができるか否かを問い質し、そのことを確かめようとした旅であったように思う。

 鶴見の旅は1922(大正11)年5月初めの北京から始まる。

 その日、鶴見はアメリカでデューイから学んだプラグマティズム哲学を引っ提げて颯爽と帰国し、文学革命の旗手として縦横無尽の働きをみせる胡適を訪ねた。そんな鶴見に向って「儒教なんてものは、支那では死んで仕舞つた」と、「胡適君が、涼しさうな顔をしたまゝ、何の苦もなく言つてのけた」。かくて鶴見は「自分は思はず愕然と」する。

 鶴見は胡適訪問の理由を「或る運動の正體を觀るには、その運動が産出した多くの文獻を見るよりも、寧ろ其の運動を指導して居る人々に會ふことが必要であると常に考へて居た」からだと綴る。

 「今眼の前に淡泊な風に話をして居る胡適君は、三十そこそことは思へないほど若々しかつた」のだが、学者としては既に大家の域に達している。「維新前後の日本人の中には、もつと若くして既に一家の説を成すだけの造詣を積んだ人もあつた」。胡適やそれら維新前後の若者に較べると、「今日の我々は、如何にも腑甲斐なく感じられた。自分達は、今少し愧ぢて反省しなければならない」と恥じ入る。

 北京の国立大学を中心に起こった新文化運動についての解説に対し、鶴見が「支那の凡ての問題の根柢に人口問題がある。支那の病弊として各國人の指摘する支那人の金錢慾と言ふものは、人口過多の國で激しき生存競爭を續けた結果である」と質問し、人口増加は厳存する家族制度がもたらすものであり、新文化運動も「家族制問題の根本に觸れなくてはだめではありますまいか」と続けた。

 すると「個人主義の影響が、支那の家族制度を崩壞しつゝある實例は、到る處に見受けられる。隨つて家族制度は、將來の支那の新文化運動の妨げにはならないでせう」と「胡適君はキツパリ言つた」。「一體胡適君は大層ハツキリ物を云ふ人である」との印象だ。

 次いで「第二の質問である儒�のことに及んだ」。それというのも「儒�と言う階級意識の強烈なる�義の盛行する支那に於て、果して四民平等を基調とする、共和制度の成立し得べきや」との疑問を持っていたからだ。そこで「儒教の儼存する支那に於て、如何にして家族制度が崩壞致しませうか」と問い質した。

 すると「胡適君が、驚くべき第二の斷案を下した」という。さて、そいつは何?《QED》


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