――「只敗殘と、荒涼と、そして寂寞との空氣に満たされて居る」――諸橋(12)諸橋徹次『遊支雜筆』(目�書店 昭和13年)

【知道中国 1839回】                      一九・一・初六

――「只敗殘と、荒涼と、そして寂寞との空氣に満たされて居る」――諸橋(12)

諸橋徹次『遊支雜筆』(目�書店 昭和13年)

 諸橋やら宮崎滔天の指摘を素直に受け取るなら、とてもじゃないが「同文同種」などというインチキが罷り通るわけはないのだが、それが声高に叫ばれしまった。堪え性のない日本人の弱点を見透かされた、ということなのか。

 諸橋は「曾て私自身が交際を得た學者の三樣の死」を示しながら、思想方面に於いても「皆己がじし自分の立場を取り得るといふ一つの幅の廣さ」を語ろうとする。

 1人は「湖南の學者葉�輝」で、「民國革命が始まつて間もなく、彼は舊思想の持ち主であるといふ單純な理由を以て?殺され、財産まで没収」されてしまう。1人は「北京大學の�授李大�」で、北京のロシア大使館において「新しき共産黨の持ち主であるといふ意味で殺されました」。残る1人は「篤実の樸學者王國維といふ人」で、「時勢の日に日に非なる實情に憤慨して、遂に北京西城の最も景色の好い萬壽山の麓の昆明池の中に身を投じて死んだのであります」。

 つまり1人は「古き思想の持主なるが故に殺され」、1人は「新しき思想の持主なるがゆえに殺され」、1人は「時勢と相容れざるの故に自ら身を投じて殺して居る」――この3例から「支那民族の思想の幅の狹さ」を考えることは「恐らくは誤」だ。じつは「支那の人々は實は有ゆる思想に對して、之に順應し、又之に耐へ忍ぶ幅の廣さを持つて居る」という。

 およそ人間が思いつく思想のほとんどが萌芽を見た春秋戦国時代以来、「混亂せる思想の中に在つて、支那民族は平然と能く之にへ忍んで來た」。「(思想の)新しきも古きも打つて一丸となして、支那民族は左程多くの思想混亂を來たして居らない」。一般には赤化が言われるが、「或は一時政策的に或は方便的に赤化の形を取ることはあるかも知れませぬが、安價に之に陶醉するといふが如きことは、恐らくは無からうと考える」。「此の點は洵に不徹底な所ではあるが、一面又支那の民族の強い所であり、不死身であると云はるゝ所以でもある」。

 諸橋が「赤化の形を取ることはあるかも知れませぬが、安價に之に陶醉するといふが如きことは、恐らくは無からうと考え」た記したのは、満州事変が勃発する1年前の昭和5(1930)年のこと。

それから5年が過ぎた1935年、林語堂は「長期間にわたる苦しい思索、読書、内省の結果」えられた「自己の観点を披瀝」し、「たとえば共産主義が支配するような大激変が起ころうとも、社会的、没個性、厳格といった外観を持つ共産主義が古い伝統を打ち砕くというよりは、むしろ個性、寛容、常識といった古い伝統が共産主義を粉砕し、その内実を骨抜きにし共産主義と見分けのつかぬほどまでに変質させてしまうであろう。そうなることは間違いない」(『MY COUNTRY AND MY PEOPLE』=『中国=文化と思想』講談社学術文庫 1999年)と記した。この当時、共産党は?介石軍の追撃から逃れ、やっと延安にたどり着いたのであった。

それから14年が過ぎた1949年、中華人民共和国という共産党独裁国家が誕生する。1950年代に入る毛沢東の独裁化が進み、1958年の大躍進政策強行で、それは頂点に達する。一時後退した毛沢東の権力も1966年に始まった文化大革命によって一層の強化をみるものの、1978年には事実上否定され、�小平は新たな国是(金儲け第一主義)を掲げて国民を鼓舞する。「貧乏は社会主義ではない。儲かる者は貪欲に儲けろ」。そして今や一帯一路に「中国の夢」である。

20世紀半ば以降、あの国は「方便的に赤化の形を取」って歩んだ。それとも共産主義の「内実を骨抜きにし」てしまったのか・・・いったい中国共産党って何なんデスカ?《QED》


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