――「只敗殘と、荒涼と、そして寂寞との空氣に満たされて居る」――諸橋(11)諸橋徹次『遊支雜筆』(目�書店 昭和13年)

【知道中国 1838回】                      一九・一・初四

――「只敗殘と、荒涼と、そして寂寞との空氣に満たされて居る」――諸橋(11)

諸橋徹次『遊支雜筆』(目�書店 昭和13年)

 諸橋の観察によれば、彼らはたんに「呑氣な生活をして居る」わけではない。その間に、何かを学んでいるという。たとえば小鳥飼を見ていると、「一時間二時間、長きは半日近くも一つ場所に立つて同じことを反覆して居る。如何にも其の呑氣さには驚かざるを得ない」が、「斯かる呑氣な生活をしている間に一つの要領を得て居る」。つまり呑気に過ごしている間に「何時か知らん小鳥の習性を能く洞察し、遂に小鳥を同化するものゝように考へられます」。

 この小鳥飼の“学習ぶり”を、諸橋は「長江の開拓」に援用して解説する。

 「楊子江沿岸は今から九十年、百年以前に歐米の人々に依つて多く開かれた」。先鞭を切ったのがイギリスで、ドイツ、アメリカ、フランスと続き「どしどし外人の經營が伸び」た。これら諸外国の力によって、楊子江に沿った港には次々と対外交易施設が設けられ、経済建設が進むことになるが、「其の間支那の人々は黙つて居る、自分の土地が外人の手に依つて開かれるといふことに就て何等の故障も申し出でず、只ぢつと靜觀して居」る。

 ところが「今から約十年前、即ち楊子江沿岸が開かれ始めてから八十年、九十年を經過した」頃になると、「そろそろ長江沿岸の支那民族が動き出しました」。「恰も地に湧いて居る虫がうぢうぢと動き出すやうな姿」で動き出した。そうなると「流石に粘り氣の強い英米人でも、そこに居辛く感ずるやうにな」り、10年ほど前から「到頭英米獨佛の各列強が、段々楊子江の上流から追ひ下げられ」、やがて居留は上海とその周辺のみに限られてしまった。こうして彼らが得たものは「英米人が五十年、百年に亙つて經營した其の設備と、之に注いだ資金と、而してそれに伴ふ知識文化といふものを唯取りにしたのであります」。

 「要するに、行動が直に結果を伴はなくとも、暫くは我慢する、長きに亙つて終局の結果を収めようといふ、意識的か無意識的かの粘り強さが、支那民族の一つの恐るべき力」であう。「呑氣な中に要領を得、長きに亙つて或る目的に就いて實現性を有する。支那の民族の力強さは實に其の點にあるのではありますまいか」と、諸橋は指摘する。

 この指摘は、宮崎滔天の「一気呵成の業は我人民の得意ならんなれども、此熱帶國にて、急がず、噪がず、子ツツリ子ツツリ遣て除ける支那人の氣根には中々及ぶ可からず」(「暹羅に於ける支那人」『國民新聞』29(1896)年12月15日)に通じるように思う。当時、宮崎は故郷の農民を引き連れシャム(現タイ)での移民事業を進めていた。バンコクでの悪戦苦闘の日々に目にした華僑の姿から、こう感じたのである。

 「一気呵成」ではなく「急がず、噪がず、子ツツリ子ツツリ」。さて、これを“戦略的呑気”とでもいえばいいのだろうか。この手に引っかかったのが、我がヤオハンだった。

 諸橋は「支那の民族性は如何にも幅が廣い」とも指摘する。「幅が廣いから從つて容易に動ぜぬ」。これを言い換えるなら「如何なる境遇に遭つても死に切らない不死身の體を持つているやうな感じ」でもある。

 大陸は広大であり、それゆえに各地の気温差は激しい。「要するに寒さも暑さも支那に於ては非常な激しい相違がある」。北方では「冬の眞只中、北京の市内に於て、殆んど身に位一布を纏はざる乞食」がいるかと思えば、「反對に、南方の酷暑の土地に於て、日中の眞只中是亦、焼石を枕に晝寝をしているやうな人々も見受け」る。「要するに寒暑の幅の廣さに對しても、支那民族は十分耐へ忍ぶ健康上の幅の廣さを持つて居」る。だが、その強靭な忍耐力は「貧富等に就いても同樣であります」。「富める境遇に臨んでも、或は貧しい生活に臨んでも、何れも皆己がじし自分の立場を取り得るといふ一つの幅の廣さを持つて居る」のだから、「一気呵成の業」を旨とする我が民族とは余りにも違い過ぎるわけだ。《QED》


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