――「只敗殘と、荒涼と、そして寂寞との空氣に満たされて居る」――諸橋(9)諸橋徹次『遊支雜筆』(目�書店 昭和13年)

【知道中国 1836回】                      一九・一・初一

――「只敗殘と、荒涼と、そして寂寞との空氣に満たされて居る」――諸橋(9)

諸橋徹次『遊支雜筆』(目�書店 昭和13年)

諸橋は、新文化運動を「支那社會を崩壊して了」う虞があるばかりでなく、「善隣の友誼に立つべき我が國に對して」、「其の當初から全く反對の排日抗日の鼓吹をしてゐることが將來何を結果し、支那の前途に如何樣に影響するか」。それは「獨り支那のみの問題にあらず、實に日支兩國百年の問題かと思はれます」と危惧の念を提起した。

 その後の日中両国の動きを追ってみると、当時の日本は、新文化運動が当初から「排日抗日の鼓吹をし」、運動の中核は「個人の解放、人權の擁護、人格の尊重――一言に申せば個人の解放を絶叫」することであり、英米の文化(ということは、とりもなおさず英米勢力)と極めて高い親和性を持っていたことに気づいて対処していたとは思えない。

 高校・大学で学んだ歴史教科書によれば、1919年の五・四運動に収斂していった新文化運動について、反伝統・反儒教であり抗日運動であるとは教えてくれるものの、その背後に英米勢力の“跳梁跋扈”があったなどとは指摘してはいないはず。であればこそ中国における日本の振る舞いに対する英米勢力の動きを冷静に追ってみるべきだろう。やはり当時から日中問題は、日本と欧米との問題なのだ。昔も今も、そして将来にわたっても日中問題は形を変えた日米問題であり、日本と西欧との問題ということになる。

 諸橋の関心は、新文化運動の大きな柱である「國語國字問題」に移る。

 この問題は、中国において「�育の普及せぬ原因の最大のものは、漢字のむつかしいといふ點」から発想された。たとえば立憲政治を行おうとした場合、その大前提は選挙であるが、「支那の實情では、四億の人口中、三億九千萬は眼に一丁字もない」。であれば選挙などできない。そこで漢字を簡略化して、「其の簡字を普及しようと力めた」。「兎に角むつかしい漢字に代ふるに、一種の音標字を以てしようとする計畫」が持ち上がった。

 そこで辛亥革命の中核を担った章炳麟が「注音字母」という漢字の表音化方式を発明する。じつは彼は革命家であると同時に、中国が生んだ最後で最も優れた古典学者、ことに「小学」と呼ばれる古典的文字学者だったのだ。「章炳麟が最後に現れたことが、小学にとって最も幸運であった」との評価があるほどだ。

 つまり漢字が難しいから教育が普及しない。つまり圧倒的多数が文字を学べず教育を受けられずに無知なままに一生を送らざるを得ない。だから社会は古い体質のままだ。そこで難しい漢字を易しくすれば、誰もが学べ、新しい社会を築くことができる――というわけだ。この理屈は、そのまま共産党政権成立後の1950年代前半に進められた「識字運動」につながる。

共産党政権は漢字の簡化を積極的に推し進め、画数を減らす一方でローマ字による表音化を試み、将来的には漢字を全廃し、中国語のローマ字表記化を考えた。前者が現在の簡体字であり、後者が現行のローマ字ピンイン表記となる。中国語の完全ローマ字化は棚上げされ、簡体字とピンインが行われているわけだ。

 1960年代末に中国語の勉強を始めた頃を思いだすが、倉石武四郎センセイは中国政府の方針のズッと先を進んでいた。さすがに東京大学教授だけのことはある。センセイの編集された教科書は全てローマ字綴り。岩波書店から出版された『岩波中国語辞典』は中国語の単語はローマ字表記され、英語の辞書と同じように「A」ではじまり「Z」で終わるような配列である。

 振り返って見れば中国語と付き合って半世紀を超える。多くの教科書に接したが、倉石センセイの漢字の見当たらないローマ字表記の教科書は役に立たなかった。とはいえアホな時代を象徴するダメな証拠であるからして、今でも大切に残してはあるが。《QED》


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