――「只敗殘と、荒涼と、そして寂寞との空氣に満たされて居る」――諸橋(7)
諸橋徹次『遊支雜筆』(目�書店 昭和13年)
さらに「最近日本は世界に於て孤立の立場に居る、だから其の國の文化に親しまなくとも、支那は國として差支もなく損もない」といった考えもある。
文化的に考えると、「日本は元來固有の文化を有つた國ではない。過去に於ては支那の文化を取入れ、最近に於ては歐米の文化を取り入れたのである。支那も初の中こそ或る手段としても日本に頼つては居たが、もう今日では其の必要はない、と斯う云ふのであります」。
つまり日本などもう学ぶ必要ないということになってしまった。
総じていうなら、「新しい文化の人々は日本の文化�育を受け附けない傾向になつて」いた。それというのも、「西洋から個人の人格を認めると云ふ思想が、馬鹿に支那の人に氣に入つたからであります」。かくして「ドシドシ�育上から日本を疎外する」ことになり、「ドシドシ日本を排斥して行」った。これが「支那新文化運動に於ける」日欧米各国の関係だ。
「從來の文化運動は大抵は根據を立て過去に求めて居る」が、「新文化運動は絶對に『思想の自由』を宣せられたといふ旗幟を立てた」。「新文化運動は絶對の自由を宣言されたものでありますから、もう有ゆる過去の論據を必要とせぬと云ふのであります」。
新文化運動始まって8年後の1919年に五四運動が起こるが、「是は隨分猛烈なものであ」ったが、やはり「政治運動も文化運動の一つであると云ふことを認め、而已ならず『外交政治の問題に容喙することが文化運動の權利であり義務でもある』と論じ」ることになる。
つまり、この時期の新文化運動は当初は思想の自由を掲げ、やがて「外交政治上の事に就いて喙を容れること」になる。思想の自由のみならず政治・外交に対して発言すること――「此の二つが新文化運動に於ける特色であり、且又懸命の標幟である」。
「新文化運動の實地活動」は大きく「内と外の二つに分つことが出來る」る。「其の内部の方から申しますと」、「(一)は平民�育の運動」、「(二)通俗講演」、「(三)次に國語の改良運動」、「(四)次にまた出版物に依る文化宣傳」、「(五)次に劇の改良」である。
以上が国内の文化活動による内側からの国民の改良運動であり、これに対して外側の活動には「(一)は外交の力爭(二)内政干渉と云ふ形に於て活動をして居」る。
「外交の力爭」は北京で学生が「日本は世界の文化を毀つ所の惡魔」などと書いた旗を手に集会を持ち、演説をし、デモ行進し「日貨排斥」を訴えること。「日貨排斥に就いては、初は日貨排斥と云つて居りましたが、次に劣貨、仕舞には仇貨排斥と云つて居りました」。この運動は北京、天津、上海、河南、湖南を始め全国的でありますが、実際の活動を見ると「餘り眞面目ではない」。中には過激な行動も見られないわけではないが、「大體から申すと極めて不眞面目であります」。
漢代の黨錮、宋代の朋黨、明の東林などに見られるように歴史上、「支那の學生が政治上の問題を爭ふたことは隨分と多」く、それらは歴史書に事細かく記されている。諸橋もまた歴史書を読んで、国を思う学生の心情に感動したらしい。ところが、「今日實地支那の學生運動を見ますると、餘程從來の讀史法の誤れるを感じた樣な心地が致します」と。つまり諸橋が学んだ従来からの歴史書の記述と実際とでは余りにも違っている。史書は針小棒大で極めて上げ底式に仕上げられている。史書の記述の文字面には信を置けない。史書の記述を信用したら実際とはかけ離れたものになってしまう――ということか。これを言い換えるなら、マユツバものの史書だから、読み手もマユにツバして読み進もう、である。
内政干渉問題にしても、自治を掲げはするが自治の基本条件が整っていない。にもかかわらず自治運動を徒に叫ぶ。こうみてくると新文化運動と大騒ぎするが、その実態は「幻影を追ふ樣な、足に地面の着かない樣な風氣が多い様に見受けられます」となる。《QED》