――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港97)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港97)
【知道中国 2215回】                       二一・三・念六

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港97)

 

深?河を間に挟んだ羅湖駅と深?駅の一帯の雰囲気はどのようなものだったのか。外交慣例を無視した紅衛兵が「文革外交」「革命外交」を掲げて北京のイギリス大使館に乱入し、焼き討ち事件を起こしてからさほどの時間が経過していなかっただけに、当時の中英関係は激しく対立し香港政庁もピリピリしていだろうし、一帯は相当に緊張していたに違いない。そこで、緊張する最前線を見たいと思い立ったものの、「不要不急の一般客」は上水駅で降ろされから、羅湖駅までたどり着けるわけはなかった。

 清明節などは特例で、墓参りのために立ち入ることが許されていた。手に花や線香、それにお供え物を持った人々を乗せた列車は上水駅のホームでいったん停車し「不要不急の一般客」を降ろした後、そのまま一般人立ち入り禁止地帯へ。上水駅のプラットホームに立つと、列車から線路に降りた人々が三々五々、墓地に向かう姿を目にすることができた。もちろん「不要不急の一般客」であるからには、プラットホームに佇むしかない。

 一般人立ち入り禁止とはいうものの、1949年に共産党政権が成立する以前から一帯に住んでいる家族は、当然のように往来はできる。ならば彼らの出入りに紛れ込むのはどうかと考えたが、やはり浅知恵だった。立ち入り禁止地帯に繋がる道路には全て警備担当兵士が駐屯する監視所が設けてあり、人の出入りを厳重にチェックしてるから、この方法もムリだ。

 ところが、である。ある日、いつも利用する佐敦道碼頭のバスターミナルで「文錦渡」と行く先が記された路線バスに出くわした。やや大げさに表現するなら地獄で仏、である。早速、車掌に「この文錦渡は、あの文錦渡か」と尋ねると、「そうだ、あの文錦渡が終点だ」。千載一遇のチャンス。そこで、取るものも取り合えずバスに乗り込んだ。

 文錦渡はイギリス領と中国領の双方に跨る田舎町で、資本主義と社会主義のショーウインドウでもあり、双方の警備当局が鋭く対峙していると伝えられていた。当然ながら、住民と警備当局者以外は立ち入り禁止である。ならば冷静に考えれば、いや冷静に考えなくても、路線バスを使ったところで行けるわけはないのだが、やはり車掌の言葉に一縷の望みを託したのだろう。浅知恵である。

 バスは九龍の市街地を抜け、新界の田園地帯を快調に走り、上水を過ぎ、いよいよ立ち入り禁止地帯の手前だ。そこでバスは停止となり、警備兵が乗り込んでくる。当たり前のことだが乗客を厳格に1人1人チェックする。かくて有無を言わさずにバスから降ろされ、トボトボと歩いて上水の街まで戻るしかなかった次第だ。

 それでも文革に荒れる大陸を見てみたいという思いは強く、新界でいちばん高い大帽山に登ってみた。当時、山頂にあったレーダーサイト間近までは自由に上ることができた。レーダーサイトを背に大陸側に立つと、遥か前方に広東の農村地帯が広がり、その向こうには幾重にも連なる山並みが続いている。だが、ただそれだけ。人の動きが見えるわけではなく、当然だが文革のブの字も感じられない。なお現在、山頂一帯は当局によって厳しく管理され、広範囲にわたって立ち入り厳禁措置が取られている。

 もう一か所、大陸を望見できたのが勒馬洲だった。ここは海外からの観光客向けの観光名所として知られていたところから、土産物屋も数軒あった。

上水から元朗に向かう本道を脇道に折れ、家鴨養殖の池の間を進んで緩やかな坂を上り切った辺りが展望台で、そこに立つと目の下のやや前方を深?河が横切っている。河のこちら側がイギリス領で向こう側は中国領と分かれてはいたが、広東の伝統的な田園風景に変わりはない。それもそうだろう。1898年にイギリスが99年期限で租借する以前は、深?河の向こうもこちらも同じく広東省宝(新)安県に属していたわけだから。《QED》

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