――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港95)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港95)
【知道中国 2213回】                       二一・三・念二

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港95)

 

新田村への往復であったか、いや粉嶺ゴルフ場沿いの道路であったか。多分、後者だったと思うが、道端の草むらに並んだ「金塔(カムタ)」を最初に見た時にはさすがに驚いた。遺骨の収まった骨壺が野ざらし状態で置かれていたのだから。日本だったら犯罪だろうに。

金塔とは内部が黒い陶器製の樽型の骨壺。表面の薄茶色から見て、おそらく焼きは甘いだろう。もちろん大陸で焼かれ、香港に運ばれる。冬季の定番であった香肉(いぬにく)料理や香港式釜飯などに使う「沙鍋」と呼ばれる土鍋と同じ製法ではなかったか。昨今の香港では日本式の土鍋が使われることが多いようだが、あれはイケマセン。やはり金塔を連想させる伝統的な沙鍋でないとダメ。ホンモノの味が出ない。明らかにウマクナイ。

さて金塔の大きさだが、日本の居酒屋などに置かれている生ビールのタンクより些か小ぶりで、中央部が大きく膨らんでいる。上部から骨を収め、同じ材質でできた蓋がされている。遠目には、やや大きく深めの洗面器を向き合わせてくっ付けたようにも見える。

最初は壊れた陶器の捨て場かと思っていたが、どうもそうでもないらしい。と言うわけで草むらを分けて近づいた。まさか手に取って見るワケにはいかないが、それでもシゲシゲと眺めてみた。蓋の部分には文字が見える。多分、死者の名前に違いない。長い年月が経ったものらしく、経年劣化と言えるだろう。割れた蓋の隙間から雨水が入り込んだり、蛇が潜り込んで巣を作ったり、あるいは風化して崩れたり。かくして否応なしに内部の骨が見えるのである。ここれが「陽葬」と呼ばれる埋葬方式だった。

当時の香港における死者の葬り方を簡単に記しておくと、納棺し土中に埋葬する。基本的には5か年(60か月)が経過した後、?作工によって掘り起こされ、洗骨した後に金塔に収め二次葬となる。石やコンクリートを使って作った馬蹄形の永久墓地(二次墓地)に収めるわけだが、二次葬のための墓地を造成するには相当の経費が必要である。だから誰もが死者のために用意できるわけではなく、一族の有力者などに限られがち。そこで簡便に地上に置いて済ませてしまう。これが陽葬。陽があるなら陰があるはず。かくて土中に金塔を埋葬して「陰葬」と呼ぶわけだ。

金塔と陽葬の来歴を知ると、それまで何気なく見過ごしていた新界の山々の山頂から山麓まで、あるいは田畑脇の草地に置かれた金塔が目につくようになるから不思議である。一般には陽葬様式で草むらに置かれたままの金塔も、やがて時が過ぎれば土中に葬られ陰葬されるとも教えられた。だが、深い草むらの中で朽ち果てた金塔に出くわしたことも再三だった。そんな場所では、「阿弥陀仏」の4文字が書かれた板切れが見られたものだ。

ついでだが、洗骨をせず納棺したまま予め造成しておいた馬蹄形の永久墓地に埋葬する葬儀にも参列したことがある。死者との別れの仕方やら納棺の手順には、日本でのそれと似通ったところもあれば、大いに違ったところも目に付く。こと葬送に関する実体験からするならば、「同文同種」はネゴトに近い、いやネゴトそのものであると痛感した。いったい誰が、なにを根拠に「同文同種」などと世迷いごとを並べて世間を誑かしたのか。

金塔で思い出したが、粉嶺の駅から墓地に向かう道には長生店が軒を並べていた。店先のガラス戸越しに、並んで置かれた木や石で作られた長細い箱型、筒形などの骨壺が目に入る。店内に入って頭を上げると目線の先の高いところに、新聞紙1頁大の写真を収めた額縁が掛かっている。セピア色に変色した金塔の写真だが、正確に表現するなら金塔の前面を切り取って、金塔への骨の収め方を示したものだ。

店員に尋ねると、「これがウチのやり方で、金塔の底の壁面に骨盤を立て掛けた後、金塔のなかで蹲踞の姿勢をとっているように遺骨を組むことになる」と。そう言われて目を凝らして見ると、写真の遺骨は立てた膝を両手で抱いて蹲って座っているようだった。《QED》

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