――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港91)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港91)
【知道中国 2209回】                       二一・三・十

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港91)

 

 ここで普慶戯院についての思い出を少し。

 文革以前は、中国から錚々たる京劇役者がやってきて、北京の舞台をそっくりそのまま移したような豪華・華麗・絢爛な公演をしている。最後の輝きは『趙氏孤児』で、文革発動直前ではなかっただろうか。舞台の中軸は、京劇のうちの生行(たちやく)の宗家とも形容できる譚一族の当時の少爺(わかだんな)だった譚元壽が務めていた。

 普慶戯院に通い出した頃は文革真っ盛りで、全面否定されていた古典京劇の公演など望むべくもなかった。よく見たのは『智取威虎山』『紅灯記』『海港』『龍江頌』『沙家濱』『紅色娘子軍』などの革命現代京劇映画版で、劇映画では毛沢東思想の偉大さを描いたに『金光大道』『艶陽天』など。やはり記憶に残るのは、新疆の砂漠における原爆実験、ヴェトナム人民の側から捉えた反米民族闘争、それに1972年から74年にかけて湖南省長沙で進められた漢代の墳墓(「馬王堆漢墓」)の発掘――の3本の記録映画だった。

 原爆実験では、「白いものを身に着けていると放射能被害は防げる。放射能は怖くない。放射能を恐れるな」と激越なナレーションが流れる。すると白いマントに身を包んだ夥しい数の解放軍兵士が、白馬に跨った同じく白いマントの指揮官の右手が振り上げる軍刀を合図に、あろうことか砂漠の先にもくもくと盛り上がるキノコ雲に向かって突撃したのである。?然、茫然、慄然。もちろん、吶喊直前に全員声を揃えての『毛主席語録』の学習を怠ることはなかったような。おそらく死の灰を浴びたであろう白いマントの兵士たちに、ほんとうに後遺症は発症しないのだろうか。他人事ながら、心配した記憶がある。

 ヴェトナム戦争の記録映画で最も印象に残っているのが、ラオスとカンボジアの鬱蒼たるジャングルをヴェトナムとの国境沿いに縫うように設定された北から南への支援ルート(「ホーチミン・ルート」)における物資輸送シーンだった。輸送に当るトラックは、米空軍の爆撃を避けるため深夜の真っ暗闇のなかをライトを消して移動する。だが、それでは運転手は盲目状態。そこで車列の前方に立った兵士が小さな懐中電灯を手に、後ろ向きに歩く。先頭の運転手は、懐中電灯の微かな光を頼りに車を進める。後続の運転手は、前を走るトラックの小さなテールランプを目印にハンドルを操作する。

木々でトンネル状に覆われたジャングルの泥濘の道を、車列はソロソロと進む。上空の漆黒の闇空に米軍機の爆音が鳴り響く。このシーンに人民の創意工夫、「人民解放戦争」の意義、ヴェトナムにおける反米闘争の崇高さを讃えるナレーションが重なる。

この映画を見終わった当初は「人民戦争とはこういうものか」と甚く感心した。だが、考えてみれば、こんな非効率な方法で大量の支援物資が運べるわけがないだろうに。記録映画を装ったプロパガンダ映画ではないか。呆れ返ったものだ。

馬王堆漢墓発掘の記録映画では、手術台のようなものに横たえられた墓の主の遺体の各部位が映し出される。2000年余りも土中に置かれていたとは思えないほどに原型を留め、指で押せば反発をみせる筋肉を捉えたシーンには、さすがに驚愕である。その時、大陸の土中には盗掘を免れた墳墓が少なくなく、やがて社会が落ち着きを取り戻したら、古代の様々な文物が飛び出し、歴史の常識を書き換えることになるのでは、などと考えたものだ。

それにしても1974年の始皇帝兵馬俑、1975年の湖北省雲夢睡虎地秦墓に埋まっていた秦代文書(「竹簡」)の発見には驚かされたが、2002年に湖南省湘西にある古井戸での膨大な量の秦代文書(「簡牘」)が発見されたのには唖然の2文字だった。2200年ほどの間、誰にも見つけられず眠っていたとは。まさに秦代社会の実態を物語るタイムカプセルだ。

昨今、大陸の各地で古代の文物が次々に発見され、遺跡の調査も格段に進んでいる。こういう地道な作業が習近平式「中華民族史観」にどのような作用を及ぼすだろう。《QED》

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