――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港69)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港69)
【知道中国 2187回】                      二一・一・仲九

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港69)

 

石川は「支那売春窟は美しい」と呟き、「哀怨嫋々たる例の歌声がひび」く「蕩々たる遊里の情緒」に浸りながら、ふと「街角の共同W.Cに入った。と、何事ぞ、四壁に充満した落書きの大部分が、/『打倒日本帝国主義!』/である」。かくて石川は「国家を」、「他国を」、「旅に出た身である事を」、「身辺に迫る支那四億の人の白眼を」、「日本の代表者として、審判の為に彼等の前に連れ出されるのを」、「感じた」。だが、「何故か敵愾心は感じなかった」というのだ。

それというのも、「日本が何か彼等の為に悪い事をしたのだ――と言う考えが深く心を責めた」からであった。そして「私は一人の罪人として此の明るい売春窟に立つのを恥じ」、「匆々にして暗い辻から海岸に逃れた」ものの、「打倒日本帝国主義の文字」に胸を痛めつけられる。

海岸に出ると、屋台のアセチレンの火の向こうに、「炎々と燃え上がるかがり火を見た」。近づくと5、6人が嘆き悲しんでいる。「水面に近い段の上では一人の男がしきりに火をかき立てて燃やしている。異様な臭気が漲っている。これは火葬なんだ」。「焚火に照らされた白衣の人の顔に滴々たる涙を見る」。改めて周囲に目をやると、「沖では出船の汽笛が鳴」り、「ホンコン市街は夜の休息と歓楽とであ」り、「此の陸と水の境では、太古の民の様な火葬が行われている」。ふと考える。「此の儀式の影に支那歴史が見られるのではないか」、と。秦の始皇帝から始まる「支那の歴史は縮刷せられて此処に此の悠々たる、駘蕩たる、神秘なる夜の海辺の大葬儀式となって私の前に表われたのではあるまいか」、と。

日本旅館を根城とする日本娘子軍、美しい「支那売春窟」、共同便所内部の四囲の壁を埋め尽くす「打倒日本帝国主義!」の落書き、海辺の火葬――これが満州事変を1年5か月ほど前にした香港で、第1回芥川賞作家が目にした香港の姿だった。

石川の訪問から6年後の1936(昭和11)年2月下旬、帝都・東京が2・26事件に揺れていた頃、俳人の高浜虚子(1874=明治7年~1959=昭和34年)が香港を訪れている。

高浜の「香港ドライブウェー」(『渡仏日記』昭和11年 至文堂)には、三菱商事や日本郵船の香港支店の世話で香港各地をドライブした様子が描かれている。京都出身の「お八重さん」と呼ばれる仲居さんが働く料亭で「松千代、久千代と云う二人の芸者」の接待を受けたと記されている。どうやら当時の香港には日本料亭があり、芸者も働いていた。まさか「松千代、久千代と云う二人の芸者」しかいなかったわけでもないだろうから、日本人社会も夜の帳が下りると、それ相応の華やぎに包まれていたに違いない。

高浜から2年後の1938(昭和13)年10月8、9日の2日間、英文学者の野上豊一郎(1883=明治16年~1950=昭和25年)は妻で小説家の野上八重子(1985=明治18年~1985=昭和60年)を伴って香港に滞在している。おそらく日英交換教授として外務省から派遣され、ケンブリッジ大学ほかで世阿弥などを講演した欧州行きの途次でのことだったろう。以下は「香港の二日」(『朝鮮、台湾、河南諸港』拓南社 昭和17年)から。

香港2日目の朝、船上から香港を見やった。 

「朝の光の中に見出した香港は、夢からさめたように、はっきりと、鮮明に、正確に、且つ甚だ手近に横たわっていた」。そんな香港は「どうみても東洋ではなく、といって西洋でもなく、イバニェスの言葉を借用すると、『極東の海岸はいずれも古い東洋の世界に落ち込んだ西洋の断片』であり、『新しいロンドン』であり、『日光と青空のあるロンドン』であるといえるが、香港は西洋らしさに於いて上海以上にその特色を持っている」。だが、「日光と青空のある西洋的東洋都市よりも、やはり夜の目で見た夢の国の宝冠の方がどれほど神秘的で美しかったか知れない」。白日に晒された香港は、やはりツマラナイ。《QED》

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