――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港68)

【知道中国 2186回】                      二一・一・仲七

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港68)

 

与謝野は辛亥革命の発端となった武昌蜂起から1か月ほどが過ぎた香港の街を散策した。孫文ら革命派の拠点であった広東は清朝に反旗を翻し独立を宣言し、清朝支配から離脱する。かくして「広東が独立して以来俄に断髪者が殖えたので剪髪店が大繁盛である。其店頭の旗に『漢興剪髪』などと大書きして居る」のであった。

与謝野は「漢興剪髪」の4文字に、「かんおこるはつおきれ」とルビを振っている。言わんとするところは、異民族である満州族の王朝を倒し漢族の新しい国を興すのだから、「髪」つまり辮髪をキレイさっぱり剪り捨てて、新しく生まれ変わろうというのだ。

じつは辮髪は満州族の習俗でこそあれ、漢族本来のものではない。17世紀半ばに漢族の王朝である明朝を滅ぼして中国本土に乗り込んできた満州族は、圧倒的に少数だった。であればこそ当初の段階では統治の先行き不安を感じていた満州族は、軍事力をテコに圧倒的多数の漢族に対する恐怖支配を狙った。そこで漢族に対し辮髪を強要したのである。いわば支配の“見える化”と言えるだろう。野蛮な異民族の習俗と見做して辮髪を拒否したら、直ちに首を断つ。首を斬られるのがイヤなら辮髪にしろ、であった。かくして清朝統治が整うなかで、いつしか漢族は辮髪に対する抵抗感を忘れていった、というわけだ。

清朝支配の及ばないことから香港は孫文ら革命派の拠点となり、また日本の大アジア主義者らの中国・東南アジア独立運動支援の中継・出撃地ともなった。

清朝崩壊の報が伝わるや、香港住民は街頭に飛び出し、「漢族万歳」の凱歌をあげ、「西洋人を殺せ」「イギリス人を追い出せ」と叫んでいる。1912年2月になって混乱は収束したが、インドからの援軍を必要とするほどに香港住民の民族意識は高まりもした。

その後、大正期では俳人の河東碧梧桐(1873=明治6年~1937=昭和12年)が与謝野から7年遅れた1918(大正7)年に、物理学者の寺田寅彦(1873=明治6年~1935=昭和10年)が1920(大正9)年に香港を訪れているが、両者とも特に注目に値するような記録を残してはいない。もちろん、他にも多くの日本人が香港を訪れ、あるいは香港に暮らしたに違いないが、目下のところ、彼らは記した文章を目にする機会がないので、ここで「昭和五年四月十二日」の日付が記された石川達三の「ホンコン旅情」(『最近南米往来記』昭文閣 昭和六年)に進みたい。

石川達三(1905=明治38年~1985=昭和60年)がブラジルの農場での体験を機に日本人移民の問題を描いた『蒼氓』で第一回芥川賞を受賞したのは、奇しくも「ホンコン旅情」が記された昭和5年だった。

 石川はズバリ、香港における「勇敢なる大和撫子たる日本娘子軍」について記す。

 「夜に入って例の日本町近くを歩いて見る。何処の植民地に行っても見る事であるが、日本人町は必らず其の市街の売春窟の近くに存在する。シンガポールでもサイゴンでもそうである。/此の理由は明白だろう。元々日本人の発展して行く所、そこを第一番に開拓したものは勇敢なる大和撫子たる日本娘子軍である。そして其後の男達も亦必らず其の近所に店を作って巧みなる連絡を保って両得をやってのけた。斯くて今日猶此の香しからぬ巧みなる戦術は各地にうかがわれると言う訳である」。

 

但し、「今はホンコンの日本娘子軍は日本旅館を根城として、直接市街に顔をさらす者は無い様である」そうな。

 どうやら『氷川清話』が説く「海外発展」は、昭和5年の香港でも行われていたことになるようだ。

 石川の香港体験は満州事変の前年である。香港も緊迫していたはず。街角の共同便所で石川の目に飛び込んできたのは四囲の壁に記された「打倒日本帝国主義!」だった。《QED》


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