――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港67)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港67)
【知道中国 2185回】                      二一・一・仲五

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港67)

 

もう少し長谷川の話に耳を傾けてみたい。

長谷川は香港では日本人遊郭については言及してはいないが、香港の前に立ち寄ったシンガポールでは、「新嘉坡(シンガポール)に関する月並の智識として落してならぬものが五つある、水上の家、ジョホール、植物園、カレーライス、日本人遊郭これ」と記す。

その日本人遊郭について、「竪に通っているマレー街、これを横に貫けるマラバール街」の「主要部分を占め、支那人は一隅に拠り白人は僅にその間に点在しているに過ぎ」ない。当時のシンガポールでは「人口二十四、五万のうち支那人は六分の二以上を占め十六万と称するが、実数は遥かにこれ以上に相違な」く、「馬来及び爪哇種等の土人」「印度種」に加え、「白人は僅か四千内外、黄白の雑種が四、五千」。これに対し「日本人は次第に殖えて今では千近くもいるとはいえ、その多数はいうまでもなく国威を海外に輝かすの傍正貨の流入を計るという女性で」あり、「着実に事業に従うものの殖えるに従って男子が先駆者たる女子に代って国威を輝す時代も来ようかと思われる」と。

どうやら勝海舟の説いた「まづ一番鎗が例の女だよ。お次がソレを顧客とする小商人やナラズ者サ。それからその地方が有望といふ事でもつて中商人が行き領事館ができるといふ始末さ」は、シンガポールでも実践されていたようだ。

ここで長谷川は「有名な私娼国の英国人」ではあるが、「同国人が誤って公娼となってこの地に来ると、直ちに醵金してこれを受出して本国に送り帰すという」。「有名な私娼国の英国人」であればこそ偽善とも言えるが、それでも「塹壕の死骸を墓地に埋葬する」ほどの意味はある。だが日本人の場合、「塹壕の死骸を賞玩しかつせしめつつある日本人は、せめてこれを取片附けようとする英人を笑う資格はあるまい」と憤る。

ここで再度、勝の言葉を思い出す。

「ソコになると外国の奴らは実に見上げたもので、まづ海外不毛の地には教法師が行つて伝道もすれば、医薬慈善の事をやる一方、地方の物産や事情を本国に報告して何々の商売が有利だと報告する。今度は資力余りある富豪が出掛ける、小商人も行く、女も行く、領事館が行くといふ風である。ソレであるから外国人はみなその地方では評判がよく、たとへゴロつきでも紳士となり、淫売でも貴婦人として待遇されるわけサ。/一体醜業婦々々と言つて軽蔑するが、それを善用すればたいしたものだよ」。

長谷川は香港では日本人遊郭のみならず売春婦についても言及していないが、だからといって当時の香港に「国威を海外に輝かすの傍正貨の流入を計るという女性」がいなかったわけではないだろう。

長谷川から10年ほど遅れた1911(明治44)年というから清朝崩壊のきっかけとなった辛亥革命の年に香港を訪ねた鉄幹こと与謝野寛(1873~1953年)は『巴里より』(金尾文淵堂 大正3年)に、「日本人の在住者は醜業婦を加えて」も千人そこそこで、「日本の公娼を抱えた家は二十戸以上もあると云う」と記している。

与謝野は「チェスタア・ロオドの三井物産の支店」の「支店長が付けて呉れた社員に案内せられ」、香港の各所を回っているが、「七十年前この地が英領となる迄は禿山であったのを、東洋と熱帯地方の有らゆる植物を移して現に見渡す様な蒼々たる秀麗な山地とし、一方には上海に次ぐ繁華な都会を建設した」イギリス人の事業を褒め称える。

そんな香港にも、漢民族による異民族・満州族王朝打倒を掲げた辛亥革命の影響が及ぶ。「此地に住んでいる支那人は平素は四十万人であるが、本国の革命騒ぎ以来広東や遠く蘇州杭州あたりから来た避難民を合せて今は五十四五万人に達して居る相だ」。ならば難民の数は14、5万人にのぼる。香港は本土難民の吹き溜まり、いや暫しの待避所なのか。《QED》

タグ: , , , , , , , , ,