――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港132)

【知道中国 2250回】                       二一・七・仲三

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港132)

「�)東南アジアで成長した後に、その機能の一部、あるいは海外事業本部機能を香港に移した東南亜華資」について駆け足で過ぎてしまった。だが香港が海外華人社会の首都としての機能を果たしていることを考えればこそ、やはり彼らと香港の関係は押さえておく必要があるはずだ。

香港における東南亜華資の先駆けと言えば、やはりタイのバンコク銀行の事実上の創業者である陳弼臣(チン・ソポンパーニット)だろう。彼は第2次大戦後のタイで独裁権力を揮ったピブン政権に深く喰い込み(この段階で、すでにレッキとした越後屋)、同行の基礎を築いた。ところが1950年代半ば、同政権が「鉄人宰相」と恐れられたサリット将軍に由るクーデターで倒されると、サッサと香港に亡命してしまう。それと言うのも彼が潮州出身であったことから、当時から香港経済の柱を握っていた潮州系を頼ったわけだ。

香港での5年ほどに及ぶ亡命生活の間、彼は寂しく配所の月を眺めていたわけでも、蟄居閉門の謹慎生活をしていたわけでもない。転んでもタダでは起きないのが越後屋である。潮州系企業仲間を背景に香港商業銀行(後に香港亜洲金融集団)を創業している。その後、タイに戻って新たな独裁政権に喰い込み、同政権のNo.2の元帥を経営トップに据え、同行を東南アジア最大の民間銀行に仕立て上げた。まさに越後屋の面目躍如である。

バンコク銀行を引き継いだのは次男だが、香港の事業を任された長男は香港経済界で地盤を築き、新聞辞令ながら一時は行政長官候補に挙げられたことも。親中派企業家の中核である。長男の息子(つまり陳弼臣の孫)も親中派であり、香港特区政府で重要な地位を占めている。これまた新聞辞令だが、将来の行政長官の“隠し玉”との声も。まさに香港・タイ・中国を舞台にした親・子・孫三代の越後屋と言ったら言い過ぎだろうか。

陳弼臣の次にあげるとするなら、やはり「砂糖王」で知られたマレーシアの郭鶴年(ロバート・クオック)だろう。香港・マレーシア・シンガポール・中国、それにミャンマーが舞台の越後屋だ。

1960年代に砂糖を軸に基盤を築いた彼は、1970年代初頭に香港に進出する。その背景を、2017年秋に出版した回想録(英文版は『ROBERT KUOK A MEMOIR WITH ANDREW TANZER』シンガポール・Landmark社/中文版は『郭鶴年自傳 郭鶴年口述 Andrew Tanzer 編著』香港・商務印書館)で、「シンガポールとマレーシアの両国政府が先を競うかのように高額所得者からより多くの税を徴収」するようになったことから、「シンガポールやマレーシアに較べてより大きな“プール”である香港」に経営拠点を移したと語っている。

香港において、彼は「アメリカ、日本、ヨーロッパの先進企業の経営トップは毎年、あるいは2、3年に1回の割合で香港に集まる。次のランクの経営陣がシンガポールに行き、その下がクアラルンプールに集まる」という現実を目にした。「もちろん今日では、世界的大企業の経営トップの足はより多く上海や北京に向かう」。時代の変化は激しい。

いわば人脈と情報とが集中する当時の香港は、世界経済のホットな中心だった。世界中の大企業が香港に進出すれば、当然のようにオフィス不足になり賃料が高騰する。そこで彼は自社ビル建設を計画し、不動産開発に進出した。

 1974年に香港に創業した嘉里貿易が海外投資の総本部だが、代表的事業が香格里拉酒店(シャングリラ・ホテル)チェーン。2015年11月の習近平と馬英九の中台首脳会談の会場に選ばれたのはシンガポールの同ホテル。IISS(英国国際戦略研究所)が主催し、中国も参加する国際防衛対話(IISSアジア安全保障会議=シャングリラ会合)が開かれるのも同ホテル。やはり香港は越後屋の巣窟、いや梁山泊とでも言えるだろう。《QED》


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