――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港39)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港39)
【知道中国 2157回】                      二〇・十一・仲三

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港39)

 

唐君毅所長以下、牟宗三、徐復観、陳荊和、全漢昇、王徳昭、厳耕望の諸先生の他には、長編小説の『紅楼夢』を専門に研究する紅学の潘重規先生、中国法制史(?)の羅夢册先生なども思い出される。

新亜研究所の前身である亜洲文商専科夜校が創立されたのは、毛沢東が北京の天安門楼上から全世界に向かって「中華人民共和国中央人民政府は、本日、成立した。これで我が民族は他から侮られることはなくなった」と建国宣言をした日から9日が過ぎた1949年10日10日だったはず。

10月10日は、清朝を倒して成立したアジア初の立憲共和政体の中華民国の建国を祝う双十節だ。当時、中華民国を率いる蔣介石は国共内戦(1946~49年)に敗れ、大陸を追われる敗残の身。台湾での再起を誓うが、この日を迎える心境は複雑極まるものだっただろう。

大陸では建国の意気上がり、それとは対照的に台湾では敗残の蔣介石政権による本省人に対する冷酷極まる恐怖政治――二重の意味で「暗黒と恐怖の時代」――が始まっていた。そしてイギリス殖民地に戻った香港には、国共内戦と共産党を逃れ大陸から夥しい数の難民が押し寄せていた。かくて新亜研究所は中国世界の激動の真っただ中で生まれたわけだ。

自前の校舎を持つほどの資金を持ちえなかったゆえに既存の中学校校舎を夜間だけ間借りする形で細々と発足した亜洲文商専科夜校ではあったが、先頭に立って学校創立に尽力した銭穆校長以下の教授陣が秘めた創業の志は稀有壮大であった。

彼らにとって中国文化、その中核である儒教と歷史こそ自らの生命の拠り所であり、中国を中国たらしめる価値システムの心棒であった。これを失ったら中国ではない、のである。中国文化によって世界を解釈し、世界の変革を目指した。中国は中華人民共和国と中華民国と、そして香港とに引き裂かれたが、「国族(ネイション)は無窮であり、それへの私の誓いも永遠である。祖国の大地は広く、その歴史は長い」と徐復観先生は綴る。教授陣は誰もが中国文化の理を窮めることで、中国の苦悩を引き受け、救おうと志した。

だが問題は資金だ。学校経営であれ研究であれ、スッカラカンではどうにもならない。銭穆校長以下の教授陣は薄給以下の俸給に耐え、学生もまた学校経営のためにアルバイトに精を出したらしい。なにせ学生の大部分も中国大陸を逃れ、命からがら香港に辿り着いたわけだから、満足に学費は払えない。銭穆校長が東奔西走の末に得た蔣介石から援助資金が、開校当初の危機を救ったようだ。やがて香港政庁から正式の高等教育機関と認められ一息つく。1953年以後はアメリカのエール協会、アジア協会、ロックフェラー財団、イギリス文化協会などの資金を得て、新亜書院(学部)の上に新亜研究所(大学院)を置く形の理想の教育体制を築くことになる。

1963年、香港政庁の肝煎りもあり、新亜、崇基、聯合の3書院による香港中文大学の成立が合意される。だが、これが新亜研究所と中文大学との間の軋轢の遠因となったようだ。もちろん、一外国留学生の身で大学行政上の対立の詳細を知る由もない。だが今にして思えば、亜洲文商専科夜校以来、唐君毅先生たちは想像を絶する苦悩を抱えながら研究に教育に悪戦苦闘していたわけだから、改めて頭が下がる。

銭穆校長は20世紀の中国世界を代表する学者。私が新亜研究所に入学した頃はすでに台湾に去っていたから、残念だが名前を聞くのみ。ところが先年、香港留学2年前の1968年夏に台湾の淡江文理学院で行われた40日ほどの語学研修の際のノートが出てきた。表紙を開くと「中国史講義:銭穆」のタイトルが。頭に浮かんだのは、毎日午後の文化講座で教壇の真ん前に座らされ、睡魔に打ち勝つためにひたすらノートを埋めていたこと。唐、牟、徐、そして銭・・・中国学術史に名を刻む学者の謦咳に直に接していたわけだ。《QED》

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