――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港38)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港38)
【知道中国 2156回】                      二〇・十一・初七

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港38)

 

「熊十力門下の三英傑」に次いで記憶に残るのは、やはり社会経済史の全漢昇(1912年~2001年)、近現代政治史の王徳昭(1914年~82年)、歴史学の厳耕望(1916年~96年)の3先生だろう。

全先生の生まれは広東省の仏山。故郷の私塾から広州の市立第一中学を経て、満洲事変が起った1931年に北京大学(史学系)へ。在学中に政治系の陶希聖、史学系の陳受頤と傅斯年の薫陶を受けたことが、その後の学者人生を決定したと、先生は述懐した。大学卒業後は中央研究院語言歴史研究所に所属し、終始徹底して史料を読み解く作業を通じて問題を発掘し、唐代以降清代までの経済を軸にした中国社会の解明に前人未到の成果を挙げた。

1944年から61年の間にハーバード、コロンビア、シカゴなどの大学で長期研究生活を送っている。1949年1月の語言歴史研究所の台湾移転に伴い台湾へ。65年から香港で研究と教育の30年間を送った後、95年に台湾へ。2001年9月に台北で死去。

先生は10㎝四方ほどのペラペラ紙のカードの束を手に教室に入ると、渋い顔のままに真っすぐに黒板に向かい、背伸びしながら小さい文字でビッシリと板書した後、ひたすらノートする学生に向かって、やおらゆっくりと威厳を以て講義を始める。これが常だった。

ところが1972年の某日、空前の珍事が起ったのだ。その日はニコニコしながら教室へ。手にしたカードの束は握ったまま。板書することもなく、学生の方に進み出て破顔一笑の態で話し始めた。スワ、何事か。学生は身構える。じつは折から起きた株式投資ブームで、先生が一山当てたと言うのだ。もちろん、その日は延々と続く自慢話で講義はナシ。「閉門読書」を終生誓ったと公言する謹厳な学者が一瞬垣間見せた“俗っぽさ”だったのか。

王先生の生まれは浙江省嘉興。極貧家庭で小学校卒業後に布屋で丁稚奉公。16歳の夏に浙江省立実験学校師範科へ。その後、恩師や友人からの援助を受け北京の中法大学(化学系)へ。1年後に北京大学(歴史系)に転じた。盧溝橋事件勃発直前の37年3月に故郷に戻り、抗日戦争支援活動に参加。その後、昆明の西南聯合大学へ。同大学卒業後、貴州大学(42年)、台湾師範大学(45年)、シンガポール南洋大学(62年)で教鞭を執った後、66年に香港へ。新亜書院、新亜研究所、中文大学で歴史系教授を務める。

長身を中国服に包んだ姿から発する雰囲気は温容の2文字。先生1人に学生2人のゼミでは気が抜けなかったが、決して居心地が悪いわけでもなかった。

時に見せていた共産党批判が、ある時から消えた。その頃、先輩の間から「先生は密かに北京に招来された」との噂が。噂だから確かめようもないが、先生も共産党の統一戦線工作に絡め取られたのだろうか。

厳先生は安徽省桐城の産。ある時、「数理の学に特に興味があったことが、後に歴史地理学に進むキッカケだったかな」と、幼い日を振り返った。1941年の武漢大学(歴史系)卒業後は斉魯大学、中央研究院語言研究所、香港中文大学、中国研究所、新亜研究所、ハーバード大学、エール大学などと研究一筋。「国学大師」と呼ばれる銭穆が最も信頼し嘱望した一番弟子で、中国中古の政治制度、歴史地理研究では世界的大学者。1996年、台北で没。

アメリカにおける中国研究のリーダーの1人である余英時が「中国歴史学界における篤実の鑑」と高く評価するほど。座右の銘が「工作随時努力、生活随遇而安」、つまり研究第一で生活は樸実質素。かくて「原稿料を稼げるような文章は一切断った」とか。研究の障害になるからと、学内行政や雑務の伴う役職への就任要請は悉く拒否。定期的に開催される先生方と学生との研究会や懇親会でも常に後ろの方に席。意見を求められた時には椅子から腰を少し上げで前屈みになり、笑みを浮かべながら顔の前で右手を左右に振っていた。

やはり可能なら3先生にも同じ質問を・・・先生にとって中国とはなんぞや。《QED》

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