――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港37)

【知道中国 2155回】                      二〇・十一・初五

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港37)

 

唐君毅、牟宗三の両先生と共に「熊十力門下の三英傑」の1人とされる徐復観先生の講義初日のことだ。背は低いがガッシリとした体形、割れ鐘のような声、話し出したら止まりそうにない難解な講義。敢えて表現するなら体全体から迸る熱情、いや義憤と言うべきか――さて、この人が、中国文化にもともとから備わっていた民主の精神をもう一度引き出すことに精魂を傾け、儒教精神と民主政治の融合に渾身の努力を続けているあの徐復観かと、新鮮な感動を覚えたことが思い出される。

 牟宗三先生は「徐復観は『当事者』の身分だが、自分は『傍観者』に過ぎず、事件に与かることはない」と語り、徐復観先生は「唐氏は仁者タイプであり、牟氏は知者タイプ」と評している。改めて3先生の言行を振り返ってみると、言い得て妙な人物評だ。   

       

 1903年に湖北省の貧農家庭の次男として生まれている。幼児から学業が秀でていたのだろう。若干24歳で湖北省立第七小学校校長に。その頃、マルクス・レーニン主義に触れ、魯迅やその弟の周作仁に傾倒。1930年、27歳で故郷の奨学金を得て日本に留学(明治大学で経済学)し河上肇を読み始める。学費が底を尽き、陸士歩兵科(第23期)に転学するも、満洲事変反対の運動を起こしたことから投獄され陸士強制退学処分を受ける。

 32年に上海に戻った後、軍隊に。日中戦争当時は国民党政府軍少将。軍令部連絡参謀として共産党の根拠地である延安に駐在。共産党の政党組織としての優位点を率直に報告したことから蒋介石に重用され、49年末に国民党が台湾に渡った後に蒋介石の資金提供を受け、香港で統一戦線工作の一環として『民主評論』を経営した。やがて思想信条の面から自由を求め、遂には国民党から離れたようだ。

 55年に台中の東海大学中文系主任。69年に同大学を離れ、70年に新亜研究所へ。82年、台湾にて死去。死期を悟って自ら筆を執った墓碑銘は「ここに眠るは、政治の世界へ分け入り、政治の世界を激しく憎むに至った、ひとりの農村の子ども――徐復観である」。

先生の弟子の1人である台湾東海大学の陳文華教授が記した「徐復観与胡蘭成唐君毅羅孚的奇縁」(『亜洲週刊』2012年1月29日~2月5日号)によれば、80年5月、徐先生は鄧小平の指名で北京に招かれた。費用一切は中国側が負担するとの申し出に、「祖国はまだ貧乏だ」と応える。北京への出発を前に体調を崩し、ついに鄧小平との面談は実現しなかった。鄧小平の狙いはなんだったのか。北京で鄧小平と会っていたら、はたして鄧小平が統べる共産党の統一戦線工作に応じただろうか。

 じつは72年のニクソン訪中が実現して暫く過ぎた頃から、新亜研究所の先生方の中国大陸の動向に関する考えや対応、あるいは共産党政権に対する空気の微妙な変化を朧気ながら感ずるようになった。あるいはあの頃、共産党の統一戦線工作は新亜研究所に狙いを定めたのだろうか。考えるほどに興味は尽きない。

 「ヒトの歴史的な実践は、論理の推移によってまっすぐ進むものではなく、そこには多くの制限があり、多くの迂路がある。論理の推理の必然に沿って進むのではなく、多くの偶然や調整や妥協がある。(この道理を弁えないヒトが)一般的に濃厚な独裁的性格を持つ。彼らを純粋な学問の範疇に留めておけば、ある種の異彩を放つだろうが、彼らを政治の実践に用いてはならない」が、最晩年の述懐だとされる。

 長い日本との関係から、日本に関する多くの評論を発表している。たとえば「誇り高く向上心に富む民族だが、自己評価が甘く、自分に有利な想定ばかりで、自分勝手な甘い幸福天国を夢想する」「日本の知識人はその強烈な商売人気質のために、外来文化を十分に消化できず、『文化の消化不良病』を産み出した」など。心に留めておきたい。

 先生が生涯を賭して求めた中国文化とは・・・問い質せたらと、切に思う。《QED》


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