――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港35)

【知道中国 2153回】                      二〇・十一・初一

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港35)

 

新亜研究所の先生方のうち陳荊和先生を除けば、最も印象に残るのは唐君毅所長だ。

1909年の四川生まれだが、遠い祖先は広東から移住している。北京大学、国立中国大学(哲学系)で学び、1940年から重慶中央大学で教鞭を執る。1949年に香港に移り、銭穆らと亜洲文商専科夜校(翌年に新亜書院と改名)を、55年には大学院(新亜研究所)を設立し、現実政治とは距離を置く中国人文研究の拠点を目指した。先生は所長(大学院長)を1968年から78年まで務める。亡くなったのは78年2月で、台北の観音山朝陽墓園に眠る。

先生の講義は儒学からインド仏教哲学まで。まさに「天馬空を征く」の勢いだった。キーワードを板書してくれるのは有り難いが、黒板の文字を消す間も惜しいのか、文字の上に文字を重ねるから読解不能。加えて声が割れる上に早口で聞き取り不能。デッカイ頭部に頑丈そうな体。もちろん太鼓腹。熱弁にズボンがズリ下がるのも気が付かない風。それでも時々、女子学生の方を向いて照れ笑いしながらズボンを引き上げる。

興に乗れば授業の終わりを告げるチャイムを無視して講義が続くから、もうイイカゲンにしてよ、である。まあ、今となっては不謹慎極まりないことではあるが。なにがなんだか判らない。そこで広東人の先輩に講義の内容を尋ねるが、「四川訛りがキツクて、俺にもよく判らない。先生の著書を読むしかないな」。だが、その著書がまた難解の極み。

そこで比較的易しそうな『青年与学問』『説中華民族之花果飄零』などを手にしたものの、やはり解らない。主著の『中国哲学原論』に至っては完全にお手上げだった。

共産党に制圧された大陸を離れ、漂泊の果てに辿り着いた文化砂漠の香港で、儒学を以て中国文化に殉ずる。魂の安息の場である中国文化こそが真の中国である。真の中国を次の世代に伝えることが儒学徒たる自らの使命である――これが当時の先生の心境と決意ではなかったか。生きることが学問だったようにも思う。

こう見ると学問一徹のようだが、「香港第三勢力」の一角に位置し、銭穆、呉子深、孫宝剛、伍憲子らと「民主社会党」を組織して活動した記録が残されている。1940年3月、汪兆銘が南京に樹立した国民政府で宣伝部政務次長として政権入りしながら、やがて反汪の立場に立ち、後に在南京日本大使館時代の知り合いを頼って日本に亡命した胡蘭成とは、胡が香港入りした1950年4月前後に知り合ったようだ。 

おそらく日本における胡蘭成支援者ルートを通じてのことだと思われるが、先生は1957年2月頃に日本で講演をしている。前後の事情から想像するに、講演のテーマは哲学ではなく、「香港第三勢力」の立場からする中国政治(毛沢東と?介石)の現状分析だと考えられる。7年後の1964年8月にも日本を訪れ、東京で胡蘭成や安岡正篤と会った記録が残る。

こう見ると篤実・厳正な哲学者が、どのような動機と経緯で政治活動に参画し、民主社会党はどのように歩んだのか。じつはY先生も中国大陸から香港入りした当時、「香港第三勢力」の運動に加わったとのことだから、この辺に両先生の接点があったと考えられる。

以下、先生の学問を我流に解釈してみると、

――中国哲学の全体系を捉えるためには、中国哲学を構成する言葉や意味、思想や真理の淵源を探らなければならない。古代の哲学・思想を有機的に繋ぐ言葉を求め、相互の意味が通じ合うところを見つけなければならない。中国思想を体得するための大前提は、古代の思想家の「心」のなかに入って行くことだ――

先生は「当代新儒家」の最高権威とされ、2003年には生まれ故郷の四川省宜賓市に宜賓学院唐君毅研究所が設立され、香港では2009年に中文大学に記念像が建てられた。

四川に生まれ、英国殖民地の香港で後半生を送り、台北郊外に眠る。共産党政権も看過し難い学問業績――その生涯から浮かぶのは・・・漂泊者の苦闘と悲哀と栄光だ。《QED》


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