――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港34)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港34)
【知道中国 2152回】                       二〇・十・丗

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港34)

 

新亜研究所で教えを受けた先生方について、指導教官の陳荊和先生から思い出すままに綴っておきたい。

先生の本貫(ルーツ)は福建省漳州で、五・四運動の2年前の1917年に台湾の台中に生まれた。たしかお爺さんもお父さんも慶応義塾出身だと記憶する。先生は東京の番長小学校、麻布中学校を経て慶應義塾大学文学部史学科へ。1942年に卒業し同じ慶応の語学研究所で助手に採用されている。1年後の1943年にハノイ極東学院に。国費留学生で、小泉信三の激励を受けてハノイに旅立ったというから、政府・大学の双方から相当に期待されていたに違いない。

おっとりした奥さんだったが、ヴェトナム貴族の血を引くと聞いて納得。ハノイ留学中に知り合ったのだろう。

敗戦を機にハノイから台湾へ。台湾大学(1946年~)、フエ、サイゴン両大学(58年~)、香港中文大学(62年~82年)で東南アジア史、華僑史、日本研究などの講義・研究を進めた。中文大学退職後は日本に移り、創価大学(82年~93年)で中国文化研究所長、アジア研究所長などを歴任した後、アメリカに移住。16世紀から17世紀の東南アジア華僑、さらには漢字を基にしたヴェトナムの伝統的文字の字喃の研究における国際的権威で、慶応大学、南イリノイ大学、ソウル大学、高麗大学、北京大学などでも教壇に立っている。1995年、ホーチミン市で客死。

初めて先生に挨拶したのは香港留学前で、三田の先生の研究室だったと記憶する。

第一印象は温厚そのものだったが、いざ香港での研究指導が始まると、時に厳しさが爆発した。そんな日の夜は、酒量を増やして気分一新である。いまから振り返れば、もっと素直に真面目にしつこく研究指導を受けて置けば、と。繰り言に過ぎないとは知りつつも。

なにせ番長小学校、麻布中学校から慶応義塾である。日本語は山の手のおっとりタイプ。加えてヴェトナム語、フランス語、英語、中国語に広東語、それに生地の台湾語とコトバに不自由はない。敢えて母語を尋ねると、しばらく考えた末に「ウ~ン、日本語かな」と。

お子さんは女、男、男、女の2男2女。長女はフランス、長男はアメリカ、次男は日本に住み、香港では奥さんと末っ子の次女の3人暮らし。日常は奥さんとはフランス語かヴェトナム語、次女とは広東語、長女とはフランス語で、長男とは英語、次男とは日本語で。講義は広東語に中国語で、時に英語だった。

コトバに関する限り、日本では考えられないような複雑極まりない家族構成ではある。そこである時、「コトバがバラバラで、家族の共通感情を持てるのか。家族が一堂に会した時、そもそも何語を話すのか」と伺ったことがある。すると「特に気にしたこともない。意思疎通に特に苦労した記憶もない」と、“驚くべき返答”だった。

後に改めて華僑・華人に興味を持つようになってみて、日本人の常識では理解し難い事象にぶつかる度に、先生のことを思い浮かべる。

祖先が福建省南部から台湾へ。台湾で生まれ、幼少期から青年期を日本で学び、青春の一時期はハノイ。その後、台湾に戻り、南ヴェトナム、香港、さらに日本と研究生活を続け、やがて老後を過ごすべくアメリカへ。突然に迎えざるをえなかった人生終焉の地がホーチミンである。香港、フランス、アメリカ、日本と居住する国や地域は違えども家族は家族・・・まさに先生の人生こそ「四海為家(世界は我が家)」そのものだったように思う。

だが先生一家だけが特別と言うわけではなかった。香港で知り合った多くは家族が、血縁が、友人が世界各地に住んでいた。むしろ香港にしか家族・親類・縁者がいない方が珍しいほど。この事実を皮膚感覚で知ったことも、香港に留学したからこそだろう。《QED》

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