――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港27)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港27)
【知道中国 2145回】                       二〇・十・十

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港27)

 共産党政権は毛沢東革命が国民にもたらした恩恵を徹底教育するため、1963、4年頃から「憶苦思甜」運動を始め、文革期に徹底した。革命前の封建社会の苦しく虐げられた過去を忘れることなく、革命によって実現した幸せを噛み締めよ、というのである。運動の柱の1つが吃苦飯(=吃苦菜)と呼ばれる試みで、みんなで集まって貧しかった時代の粗末極まりなかった食事を口にし、「苦しみを憶(おもおこ)し」、改めて「甜(よろこ)びを思(かみし)めよ」というわけだ。忠字舞は文革の盛時、紅衛兵ら若者が率先して演じた毛沢東への忠誠を表す踊りだが、これを集団で繰り返すことで一種の集団催眠・洗脳の効果を狙ったものだろう。

 1967年の香港暴動失敗の後、香港左派は街頭に立って一般市民に自らの主張を訴えることなく、いわば仲間内で密かに文革の真似事を繰り返していた。もちろん当時、滑走路を走る香港という機体は繁栄に向けてスピードを一気に上げ、まさに離陸しようとしていた。だから、一般市民が「毛沢東思想万歳」を掲げる左派が語るネゴトの類に耳を傾け心を動かされるようなことはなかったはずだ。

 だが彼ら当時の親中左派は愚行を繰り返していた。参考までに、そのいくつかを示しておくと、「下放運動」であり、紅衛兵による「大串聯」であり、毛沢東思想宣伝のための「文工隊(=文芸工作隊)」であり、「憶苦思甜」であり、「吃苦飯」であり、「紅小兵」だった。だが、その全ては真似事(「ゴッコ」)に近く、文革最盛時に大陸で日常的に繰り返されていた一連の運動を、親中左派はそのまま香港に持ち込んだだけ。それが彼らの意志なのか、それとも北京に対する忠誠心の証なのか、あるいは北京の強要なのか。それは不明だ。

 たしかに大陸では「百戦百勝」を崇め奉られ讃えられる毛沢東思想だろうが、香港では屁の役にも立たないのである。香港市民を動かす事は出来ない。そんなバカバカしい運動が一般市民に通用するわけがないことに彼らも気づいていた。だが、彼らはそうせざるを得ない立場にあった。やはり北京の顔色を窺うしかない、ということだろう。

 ここで“香港の文革”で見られた下放運動、大串聯、文工隊、憶苦思甜、吃苦飯、紅小兵について簡単に記しておきたい。

 下放運動は「上山下郷」運動とも呼ばれ、共産党成立からほどなく始められた。この運動が有名になったのは文革最盛時に紅衛兵(都市の若者)を農村に送り込み、農作業を通じて毛沢東革命と労働の尊さと学ばせようと企図したからである。だが、これはタテマエに過ぎない。純粋であるがゆえに紅衛兵の先鋭部分が文革のインチキ振りに気づき始め、文革に疑義を抱く。そこで毛沢東ら文革派は彼らを都市から追放する。口封じだった。

 大陸における下放運動の内実はともあれ、香港でも下放運動は展開された。左派系中学校では教師も生徒も新界の農村に出掛け、援農運動を展開している。

 大串聯とは文革初期、革命の学習と相互交流を掲げ、全国の若者を北京に集め、あるいは全国各地の革命聖地を見学させるべく進めた運動であり、基本的には食費・旅費・滞在費の一切が無料だったと言う。些か古い表現だが、アゴ・アシ付きの“ディスカバー・チャイナ”だった。毛沢東を神と崇める純粋な若者の中には紅旗を先頭に、毛沢東の写真を捧げ持ち、数百キロの道を徒歩で踏破し、革命聖地を巡った者もいた。もちろん、途中の村々で農民や漁師を相手に毛沢東思想の宣伝を行ったわけだ。

香港でも大陸の若者と同じように大串聯(もっとも香港は狭いから「小串聯」では?)を敢行した若者たちがいた。洗いざらしの上着の胸に毛沢東バッチを光らせ、手にした『毛主席語録』の一節を全員で唱和しながら、数百人が隊伍を組んで新界の農村を練り歩く。もちろん隊列の先頭には毛沢東の写真が掲げられ、数多くの紅旗が翻っていた。《QED》

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