――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習35)

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習35)
【知道中国 2369回】                       二二・五・念一

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習35)

もう少し凄まじい話を続けたい。

当時北京で幼少期を送った映画監督の陳凱歌は、自らの半生を綴った『私の紅衛兵時代』(講談社現代新書 1990年)で、「いまでも私は覚えている。マーケットの周りで野菜の根やクズを拾い集めては、細かく切り、サツマイモの粉で包んで野菜団子を作った。両手でそっと持ち上げないと、ばらばらになってしまう。学校にいた大勢の子供のなかには、休み時間に大豆を五粒もらえるのを楽しみにしている子もいた。香ばしくなるまで煎ってから、汗がでるほど手に握り締めて、それからしょっぱいのを一粒ずつかみしめる。それでも、足にはむくみが浮いたままだった」と、当時を振り返っている。

首都でこの惨状である。ならば地方は想像を絶するばかりだった。

「河南省では、生産目標で決められた国への売り渡し穀物を確保するために、武装した民兵が、小さなほうきで農民の米びつの底まできれいに掃き出していた。さらに封鎖線を張って、よそへ乞食にでることを禁止した。まず木の皮や草の根が食い尽くされ、やがて泥にまで手が出された。そして、道端や畑、村の中で人々がばたばたと死んでいった。三千年にわたり文物繁栄を謳われた中原の省に、無人の地区さえできてしまったのだ。後になって、後片付けの際、鍋の中から幼児の腕がみつかった」と、陳凱歌は記す。

陳の生まれは1952年8月で、習近平は53年6月。習近平の両親ほどではないにしても、陳の両親もまた共産党の幹部だった。だとするなら習近平も陳と同じような生活環境に在ったはずであり、同じような記憶が頭の片隅に今でも刻まれていることだろう。

まるで幽鬼に充ちた地獄絵図のような惨状について、当時の日本では伝えられることはなく、「中国にはハエ一匹いない」「誰もが豊かで満ち足りた生活を送る地上の楽園」と言った類の見解が学界やメディアで大いに喧伝さていたものだ。

当時の日本は60年安保闘争が盛り上がり、革新勢力、進歩的知識人、親中系政治家・経済人・メディア関係者などがアゴアシ付きで中国に招待されていた。彼らを使って親中ムードを盛り上げ革新勢力にテコ入れし、反動保守勢力を孤立させ、安保反対運動を支援し、日米安保体制に風穴を開け、日本におけるアメリカの影響力を削ぎ、あわよくば日本弱体化を狙った。いわば日本は共産党政権の統一戦線工作に巻き込まれたのである。

この頃、1人のスエーデンの女子大生が北京大学に留学した。後にスエーデンを代表する中国通となるセシリア・リンドヴィスト(1932年~)である。彼女は当時の記録を『もう一つの世界 中国の記憶 1961-1962』(2015年)として残しているが、北京大学キャンパスにおける状況を次のように綴っている。

「(清明節が終わり春耕期になると)キャンパスの様相は一変した。学生は建物の間の地面という地面の土を掘り返し畑にし、主に豆類のタネを植えた」

「(栄養状態は劣悪で)5月中旬になると体調不良の学生が続出したため、休講となった。誰もが力なく学生寮の自分の部屋にゴロンと横たわり、あるいは便所で絶望的に蹲るしかなかった。寮全体に嘔吐の音が絶えることなく、排泄されるのは黄河の流れのような色の排泄物だった。便所の排水溝は塞がれ、逆流した排泄物で床はツルツルになり、滑って転ばないよう細心の注意を払った」

「(某教授は)いよいよ絶望的になる経済状況に怒りを募らせるばかり。そして『こんなのは我々が重ねてきた奮闘努力の目標ではない。30年昔、私が理想として描いていた社会とは全く違ってしまった』」

「中国社会の変貌に北京大学の外国人留学生は学習意欲を失い、多くが帰国し、留学生寮の1棟は閉鎖された。〔中略〕アフリカ人留学生は仮病を使って、あるいは故意に警察官に暴行を働き国外退去処分を受けるなど、1962年には90%のアフリカ人留学生が中国を離れた」《QED》

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