――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習4)

【知道中国 2338回】                       二二・三・初八

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習4)

幼少期の習少爺は、庶民なんぞには思いも寄らなかったような規格外の超豪華な環境で育った。ところで当時、北京で庶民はどのような生活を送っていたのか。それを一瞥しておくのも中国社会の実像を知る一歩になると思うのだが。

習近平より1年早い1952年に、「北京の映画人の家に生まれた」陳凱歌は『私の紅衛兵時代  ある映画監督の青春』(講談社現代新書 1990年)で「私の子供の頃」の北京の庶民生活を、次のように回想している。具体的な年代が示されていないが、おそらく1950年代後半だと見なしておきたい。やや長文だが、敢えて記しておく。

 「晴れた日には、雛の入った籠を天秤で担いだおじさんが、胡同に入ってくる。呼び声をあげなくとも、たちまち子供たちに取り囲まれてしまう。するとおじさんは、一羽を掌に乗せ、ようやく芽をふいた柳を指差す。『ほら、柳絮みたいだろう』。子供たちは、毛のふさふさした雛を抱えて家に帰ると、靴の箱に入れて粟をまき、座り込んで見ている。夜がふけても眠るわけはなかった。

 金魚売りの荷は、担いだ天秤の一方が木の箱で、もう一方は丸いガラスの鉢だった。欲しい金魚をすくってもらうと、きれいな水に入れて、それから緑色の水草だ。

 エンジュの花が散れば、花売りのおじいさんが、晩紅玉(夏水仙)を絹糸でつないで、小さなお茶目な女の子の首に掛けてくれる。その子が駆け抜けると、香りが胡同一面にそっと散っていった。

 夜は、それもとくに冬の夜には、食べ物を売る呼び声が、よく聞こえてきた。古くなった中庭の戸を開けると、ランプと人影が見える。湯気に明かりがチラチラ揺れている。ゆうゆうと歌いながら人影が遠ざかっていくと、夜があたりを包み込んでくる。ベッドに横になって目を閉じれば、布団の温もりと確かさが身にしみた。

 その頃の北京は、まるでお堀に映る故宮の角楼の影のようだ。それは夢の世界のように静かだった。そよ風が吹き、さざ波が揺れても、砕け散ることはなかった。松や梅の古木、それに庭園や胡同も、しっとりと古めいて、どことなく誇らしげでもあった」

 陳凱歌の回想に拠る限り、どうやら街角には建国以前の古い、長閑な北京が残っていたようだ。あるいは習近平少爺も、時にはこんな北京の下町風情を楽しんでいたのだろうか。

 さて、手許にある古本のなかで最も古いものは『怎樣教學中國語法』(黎錦熙・劉世儒編著 商務印書館 1953年9月)で、初級中学における中国語文法担当の教員用の参考書である。なお、当時はまだ現在の中国で使われている簡体字は正式採用されてはいないから、簡体字と繁体字が併用されている。

 ここで、文法解説の例文に、すでに毛沢東を称える文章が使われていることに注目しておきたい。教室で文法を教えながら毛沢東の“存在感”を生徒の頭の中に刷り込もうとしたのだろう。以下、毛沢東を主題にした例文をいくつか拾っておくと、

 「毛主席の健康こそ、我ら全国人民の幸福というものだ!」

 「毛主席はボクらに“民主”を授けて下さり、みんなはボクを委員に選んでくれた」

 「これこそ毛主席の指導の素晴らしさだ」

 「中国に毛主席が出現した」

 「毛主席はまるで身内のように打ち解けて語りかけてくれる。毛主席の温和で心を砕いた語り口を、私はずっと記憶する」

 「彼らは毛主席と握手した同志の手を羨まし気に握り、その時の様子を訊ねたのである」

 こもちろん「毛主席、万歳!」の文字は綴られていた。早くも1953年には文法学習においてすら若者の頭脳に「毛沢東」を刻印する作業が始まっていたことになる。《QED》


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