――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習60)

【知道中国 2394回】                       二二・七・仲八

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習60)

もう少し『私の紅衛兵時代 ある映画監督の青春』を拾い読みしてみたい。

「紅衛兵が街に繰りだすと、林彪が叫んだ。『天地をひっくり返し、嵐のような風波を巻き起こして、大いに引っかきわせ。そうやって、ブルジョワ階級を眠れないようにし、プロレラリア階級も眠れないようにするのだ』」

「兇暴だったのは、なにも男ばかりではない。なかには女性もいた。サクランボウのような可愛い唇をした、女子大生や中学生が、布を巻いて胸を押さえつけ、髪を短く切り、なかには剃った子もいたが、幹部の一族という自分の高貴な血統を鼻にかけ、粗暴な言葉を吐きながら、じつに兇暴だった」

「彼や彼女らは、数百メートルの長さで北京駅前に二列の列を作った。腰に手をあて、あたりをにらみつけ、革ベルトやいろいろな凶器を手に持っていた」

「(ある中学校の)紅衛兵は、校内にトーチカを築き、鉄条網をめぐらして、『労働改造所』と称していた。実質は私設の刑務所で、同級生を含む大勢の犯人を監禁し、連日のように拷問にかけていた。〔中略〕犠牲者の鮮血にまみれた手で、壁に『赤色テロ万歳!』と大書きされた」

「当時の公安相謝富治は、こう演説したものだ。『大衆が人を殴り殺すのには、反対する。しかし、大衆が悪人を骨の髄まで恨み、我々が制止しきれなければ、それも仕方がない』。要するに、人を殺しても罪にならなかったのだ」

かくして陳凱歌は「文革とは、恐怖を前提にした愚かな大衆の運動だった」と結論づけと共に、「一九六七年には、革命はもう退潮期に入っていた」とする。

だが、毛沢東派=文革派による書籍、「大字報(壁新聞)」、歌、踊り、演劇、大衆芸能などの動きから判断するなら、1967年段階では「退潮期に入っていた」とは思えない。むしろ、この時以降、様々なメディアを駆使し、文革は社会全体を巻き込んで、全国津々浦々で展開されていったと見なすべきだろう。

1967年3月、「中共中央馬克思 恩格斯 列寧 斯大林 著作編訳局」が『馬克思 恩格斯 共産党宣言』(人民出版社)を出版した。「1949年9月第1版 1964年9月第6版 1967年3月北京第1次印刷」と記された同書こそ、文革派による“紙の爆弾”を使った絨毯爆撃の第一撃ではなかったか。

翌4月には、解放軍文芸社から『一心為公的共産主義戦士蔡永祥』が刊行されている。

 1966年10月9日午前、江西省吉安市第二中学の紅衛兵と革命的教師の一団は天安門広場で毛沢東の接見を受けるため、南昌発北京行きの汽車に乗り込んだ。

「僕らの心は、もう北京に、毛主席の身辺に飛んでしまっていた」。「汽車もまた飛ぶように奔る。二日目の深夜二時過ぎ、銭塘江辺りにさしかかると、汽車は鉄橋の上で急停車した。なんだろう。なにが起こったんだ。数十分が過ぎた後、列車は何事もなかったかのように動き出した」

車掌の説明によれば、「銭塘江大橋手前数十メートルのところで線路を塞ぐ大木を発見したが、解放軍の戦士が我ら紅衛兵を毛主席の許へ送り届ける列車を救ってくれ、英雄的犠牲になった」

「この知らせを聞くや、列車に乗り合わせた誰もが深い悲しみを覚え、この真の毛主席の立派な戦士、プロレタリア文化大革命に身も心も捧げた守り手に惜しみない賞賛を送り、『解放軍は紅衛兵をイチバン愛しむぞォーッ、我らは解放軍にシッカリと学ぶぞォーッ』と、一斉に声を張り上げた」のであった。さぞや革命的アドレナリンが迸ったことだろう。

やがて紅衛兵を満載した列車は北京駅へ。その先に狂瀾怒濤の巷が待っていた。《QED》


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