――「社稷既に亡んで、帝陵空しく存す」――大町(1)大町桂月『遊支雜筆』(大阪屋號書店 大正8年)

【知道中国 1855回】                       一九・二・初八

――「社稷既に亡んで、帝陵空しく存す」――大町(1)

大町桂月『遊支雜筆』(大阪屋號書店 大正8年)

 高知生まれの大町桂月(明治2=1869年~大正14=1925年)は、明治13年に上京し杉浦重剛の称好塾に学んだ後、東京帝大国文科へ。「明治會叢誌」「帝國文學」などに拠って評論・美文・新体詩などを発表し、大学派・赤門派の重鎮として活動。明治33年に博文館に招かれ『太陽』『文藝倶樂部』『中學世界』などに文芸時評・評論・評伝・紀行文などを発表する。文章を修行することで人間の錬磨を主張し、明治・大正期の知識青年に大きな影響を与えた。

 「序」で「朝鮮は今や皇國也。南滿洲の地は、近く日清戰爭に、日露戰爭に、我が同胞の鮮血を流したる處にして、現に我が同胞の活躍せる處也」と記す。「今や皇國」となった朝鮮、「我が同胞の鮮血を流したる處にして、現に我が同胞の活躍せる」ところの南満洲を、大町は「四箇月の日子」を掛けて歩いた。

 南満洲の旅は「初は大連を根據地として、後は奉天を根據地として、南は旅順、北は哈爾濱、東は吉林、西は鄭家屯の間を跋渉すること幾んど二箇月」。それは「大正七年將に暮れむとす」る頃であった。

 満洲に火山はないが温泉はある。「温泉宿は日本人が創めたる也。滿洲人の在る處に風呂なし。日本人の在る處には、必ず風呂あり。風呂より温泉の方が遥かに氣持よし」。そこで「(満鉄)本線の熊岳城、湯崗子、安奉線の五龍背」の「三温泉は滿洲にある日本人に取りての極樂浄土」ということになる。

 3温泉の1つである五龍背に宿を取る。「ペチカは室を煖め、靂泉は身を煖む。冬枯の滿洲に陽春の心地して、余はこゝに四宿しぬ。而して新年を迎へぬ」。

 明くる大正8年は西暦で1919年・・・ということは、今からちょうど100年前に当たる。

その後の日本の針路に大きな影響を与えることになる国際的な出来事としては、パリの講和会議(1月)、朝鮮における三・一独立運動(3月)、反伝統を掲げる一方で近代中国における最初の本格的反日運動となった五・四運動(5月)、ヴェルサイユ講和条約締結(6月)、シベリア撤兵開始(9月)――日本も国際政治の主要プレーヤーとして歩みだす。

「大連より北四百三十五哩八分、長春に至りて、滿鐵の線路盡く。而して東清鐵道始まる。長春は南滿洲の裏門にして、兼ねて北滿洲の表門也」。その長春の八千代館で昼食。やがて日本人芸者が「一人あらはれ、二人あらはれ、三人あらはれ、遂に四人となる。最も年老いたる藝者、聲美にして追分を歌ふに、滿洲の野に在る心地せざりき」。まあ、それはそれは天下泰平でゴザリマスなァ。

長春の街を馬車で散策する。「支那人の乞兒のとぼとぼ歩くを見て」、案内役の某氏は「あれはまだ死なず」と。続けて、「乞兒は長春の名物也。北滿洲にある支那の乞兒、鐵道にて追還されて、長春に來り、長春にても追はるれど、動かず。長春は乞兒の溜場所となりて、凍死する者の年々數百人の多きに達する也」と。

「長春より哈爾濱まで、二百二十五哩」をロシアの東清鉄道に揺られる。

途中の某駅を過ぎた頃、南への追放を免れたと思われる「支那人の乞兒來る。兩足なし。兩手に木枕の如き木片を持ちて、兩手と兩膝にて歩く。年は四十ばかりに見ゆるが、頭をさぐるでもなく、語を發せず、にこにこと樂觀的の顔付きを爲す。食ひ殘したるもの一切を與ふれば、受けて默つて立ち去れり」。汽車が某駅に着くと、「その乞兒の汽車を下りてブラットホームを這ひゆくを見たりき」。

どうやら大町の満洲は、日本式の温泉と「年は四十ばかりに見ゆる」ところの「にこにこと樂觀的の顔付きを爲」した乞食との出会いから始まったということなのか。《QED》

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