――「社稷既に亡んで、帝陵空しく存す」――大町(3)大町桂月『遊支雜筆』(大阪屋號書店 大正8年)

【知道中国 1857回】                       一九・二・仲二

――「社稷既に亡んで、帝陵空しく存す」――大町(3)

大町桂月『遊支雜筆』(大阪屋號書店 大正8年)

 「されば大なる我が足、といいても普通なる」にもかかわらず、纏足ゆえにヨチヨチ歩きの上海務本女学堂の女生徒らからすれば「羨望の目標となりしもおかしかりき」。

 やがて「明治三十六年十一月二十二日、空は隈なく晴れて、塵ばかりの雲もなきに、かしま立ちする心も勇みぬ」と上海を離れる。塘古、北京を経て最終目的地カラチンへ。

 「カラチンはいずこ、北京の東北にあり。途中の旅に九日ばかり要すべしと。(中略)長城以北の宿りは天幕にもやあらん、あるいは馬賊の難あらんも測られじなど、問えば問うほど気づかわしさの増す答のみにて、かよわき女の身には恐ろしくさえなりたり」。だが「恐ろしいといい不安に感じて躊躇するは、無事太平の世に於いての事、今わが故国は、二千数百年來未だ曽てなき重大の時期に臨み、まことに国家興亡の秋なりと聞」かばこそ、固い決意を秘め、操子は旅立つ。

日露関係は極度に緊迫の度を加える。カラチンでは日露双方の熾烈な諜報工作や後方撹乱戦が展開されていた。もちろん操子もまた日本側工作――横川、沖らの後方支援に努める。その一方で、内蒙古カラチン王府の教育顧問として王妃の助力の下に内蒙古最初の女子教育機関である毓正女学堂の経営に当った。

第一期生は「王妹及び後宮の侍女と、王府付近に居住せる官吏の子女とにて、二十四名という数に達したり」。ある週の教科をみると、日文、算術、日語、唱歌、体操、図画、家政、編物を著者が、習字、漢文、蒙文、歴史、修身、地理などを漢族や蒙古族教師が担当している。「やまとなでしこ」として育てようとする操子の目標を、「先生、どうぞ蒙古の人になって下さい」と希求する王妃が心温かく全面的に支える。

 ある2年生は作文の時間に、「ワタクシハ、ハルガタイヘンスキデス。ナゼスキデスカ。イロイロノハナガキレイニサイテヲリマスカラ、ワタシハスキデス」と綴った。

「明治三十九年一月」、名残惜しくもカラチンを去る日、「三人のカラチン少女は、境をこえて旅すること初めてなり」と、日本留学を目指す3人の少女を伴い帰国。その後、内モンゴルは漢族に蹂躙され、モンゴル文化を育んだ草原は無惨にも消え去り現在に到る。であればこそ、操子が孜々営々と務めた教育の精華をカラチンの地に求めることはできない。内モンゴルにおける民族浄化の蛮行は毛沢東だけが犯したわけではないだろう。

 やがて操子は横浜正金銀行ニューヨーク副支店長の一宮氏と結婚。「敵地に等しい蒙古に、重任を負いて単身入込たる心身の苦闘」を周囲に一切感じさせることなく、一宮夫人として働く傍ら、「新進の国を識りたいと熱望している研究者、学者等」の日本理解に努めた。コロンビア大学で学んだある知日派米人は「称えても称えたりない」と、操子を讃える。

 この辺りで大町に戻る。

 「二十餘年の昔となりぬ。我國は支那と戰ひて、連戰連勝の結果、遼東半島を得たり。さるに露國は獨佛と同盟して、我國をして遼東半島の還附せしめたり。而して代りて關東州を租借せり。大連に一大商港を設けたり。旅順に難攻不落の要塞を築けり。滿洲の野に鐵道を開けり。犬勞して鳶にさらはるとはこの事也。日本國民誰か憤慨せざらむや。斯くて滿洲は露國の勢力範圍となれり。その勢力なほ鶏林八道に伸び、我國に迫る。日本國民誰か寒心せざらむや」。

 かくして「終に明治三十七年に至りて、日露戰ふことゝなれり」。「國民擧つて勇み立てり」。「當時北清に在りし日本の人々、相集りて、それぞれ國の爲めに盡さむことを謀れり」。そのなかに横川省三、松崎保一、沖禎介、中山直熊、脇光三、田村一三がいた。もちろん河原操子も・・・「身を虎穴に投じ、神州の正氣を發揮して、遺烈千古に輝く」。《QED》

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