――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――�田(12)�田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)

【知道中国 1957回】                       一九・九・仲八

――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――�田(12)

�田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)

上海で�田は「中國共産黨との連絡、朝鮮共産黨との連絡、コミンテルンから派遣されている上海駐在の指導的同志との連絡など、一切合財の世話をしてくれる」という「朝鮮の同志」との接触に成功する。

上海で帰国準備ということになる。“開けっぴろげ”な�田だが、さすがに帰国準備については「私はこの内容をいちいちはなすことは出來ない」として明かしてはいない。

南京から上海に到着した当時、上海は福建を拠点とする孫傳芳将軍によって支配されていた。「各中國人の商店のシヨーウインドウには孫傳芳将軍の大きな寫眞が飾られてその支配を祝福する文字が書き連らねられてあつた」。「中國商人の利に鋭い點からみて、こうすることがはげしい搾取をのがれる保身の術であつたのかもしれない」。

�田によれば「上海の街は實に大きく華麗である」が、「中國人の企業はそう大きいものではなく、企業の大きいのは日本ならびにイギリスの紡績工場、主としてイギリス人が支配しているドック、小さい造船所、水道、電氣、電車、バス、自動車等々である。その他は海運企業だがこれも主としてイギリス人が支配し、これに中國の資本が參加している程度」。だが「中國人がゆうゆうとしてぜいたくな生活を送り、あらゆる大きなホテルや料理店や芝居や映畫館、競馬場その他の娯樂設備が大繁昌をきわめていた」。

「ここらに出入する中國人の紳士淑女」は「ほとんど仕事をしているようには思われない」し、「ぜいたくな生活で體がボヤーッとしているようであ」り、「いわゆる土豪劣紳の連中らし」く、「ここが外國の租借地で外國軍隊に支配されているから安全」だから集まっている。彼らは人民から搾取したアブク銭で「上海で安心して遊樂にふけつている」。「上海の街はじつに、中國を賣り中國をくさらかす根源地になつているということができる」。

だが「中國共産黨の諸機關の同志や、朝鮮共産黨の上海にいる同志たちは非常に活?であつた」。ロシア革命以来の革命の世界的高まりは上海にも押し寄せ、「階級闘爭が進むにつれて、上海はプロレタリアートの政治學校の中心となつた。ストライキと勞働組合の發展は中國全體にわたつてつよい力をあたえた」のである。

一般に当時の上海は「魔都」と呼ばれていたが、さすがに�田である。彼にとっては「勞働者の政治學校」であり「學生運動の中心だつた」ことになる。

帰国準備も整ったところで「朝鮮の同志」の手引きで満鉄経営の船に乗り、�田は海路で「日本帝國主義下の大連」に向かう。

大連では「どこの埠頭に着いても客引きは日本人ばかり」。どうやら「日本人はこういう點で共食いすることにきわめて熱心のようだ」。明日の帰国までの空き時間を利用して「一日大連の街を見物することにした」。「山縣通り、大山通り、兒玉通り」と、「通りという通りすべてが日露戰爭時の日本の將軍連の名前である」。それというのも、「軍國主義を記念して徹底的にこれを大連の住民やここに來る旅客にたたき込もうとしてたらしい」。くわえて「あらゆる施設がほとんど全部という全部」が「滿鐵ずくしなのだ」。

「大連はまるで、滿鐵の所有物のよう」である。「ここに日本帝國主義の表徴が臆面もなくさらけだされている感じであ」り、日本の商人どもは滿鐵のよだれを少しばかり頂だいしているというかたちであ」り、「結局、軍閥は大連を自分らの遊び場所として、また財政的な面でぼろい取引をする場所としているようであつた」。

「彼らに所屬している以外の者はゴミくず同樣」に扱う満鉄だが、「その設備のほとんどすべたがツアール・ロシアの殘したもの」を利用しているだけ。「だから日本帝國主義は奪うことは知つていても自ら大建設をして行くことには興味が少ないようである」。《QED》

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