――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(15)鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

【知道中国 1921回】                       一九・七・初七

――「支那は日本にとりては『見知らぬ國』なり」――鶴見(15)

鶴見祐輔『偶像破壊期の支那』(鐵道時報局 大正12年)

 「其の無限の曠野、其の底知れぬ忍耐力」に対するに「繊麗なる日本の自然と怜悧なる日本の人間」。この両者の間で「相互無關心に相互不感染に存在し乍ら三千年の國交を續け」てきたことに、鶴見が首を傾げる。そして「十二萬方哩の小國たる日本と四百萬方哩の大國たる支那との關係」は、とどのつまり徹底して「『見知らぬ國』である」と結論づけた。

 「同文同種と言ふ抽象的な概念的な標語に累せられて日支兩國民は、あまり相知つたと自惚れ過ぎた。相似ざる隣人達が、異なる環境に異なる文明を抱いて生活し乍ら、相似たる者の如くに振舞つた。其の間から怏が渦巻き起こつた」。とどのつまり、「似ざる者の間に起る精神的反撥と物質的乖離とを一時の權宜と半呑半吐の好意とを以て繋ぎ合わせようと大勢の人々が騒ぎ犇めいた」ところに、問題の発端があったわけだ。

 「日支兩國民」が揃ってそうだったのかどうかは判らないが、少なくとも日本人が「同文同種と言ふ抽象的な概念的な標語に累せられて」、「あまり相知つたと自惚れ過ぎた」ことだけは確かだろう。「あまり相知つたと自惚れ過ぎた」からこそ、その後の悲劇――敢えていうならば嘗めなくてもいい苦労――を体験しなければならなかったに違いない。

この鶴見の指摘は正鵠を得ている。余りにも正しいだけではなく、中国に関心を持つ日本人の大部分が今に至っても学び取ることのできない、あるいは体得することを回避し続けた“不都合な真実”と言っておきたい。やはり我々は「あまり相知つたと自惚れ過ぎた」のである。いや、より正確に表現するなら、「自惚れ」に「自惚れ過ぎた」のだ。

 あたかも当時は奉直戦争と呼ばれる軍閥間の内戦が行われていた。

 北京に近づくに従って「鼠色の小倉服を着た支那兵」が目につくようになる。「停車場の壁や汽車の廊下などに、二尺五寸に一尺五寸程の大きな貼紙がしてあ」り、そこには「汝等秋毫も犯すべからず」と。一方の大将である張作霖の布告であった。その狙いは「民心を害なふまいと言ふ支那の督軍の苦心と、其の苦心の背後に在る支那の輿論の勢力、と言ふやうなことが、スーッと旅行者の腦裏をかすめて通る」。

 ここで鶴見は「埃及の沙漠に立つスフィンクスのやうな、昔からの謎である」「支那に於ける民論の勢力」について考えた。それは「或時は無いやうで、そして或る時は千丈の奇峰のやうに峙つて來る」。「其の正體を見究めやうと思つて、多くの外國人と旅行家とが、北は北京から南は廣東まで走り歩いた」。その結果、「冷頭の物知り」は「支那に民論などあるものか」と吐き捨てる。一方、「生一本な人道論者」は「支那は昔から民論の國である」と「握り拳を固め」る。どちらにしても「民論」の正体を捉まえられない。

 この「正反對の兩極端の間に、區々まちまちの評價が人々の性格のまゝに生まれて來た」。それゆえに、「支那の民論の價値」は永遠に未解決の謎であり、謎のままに「支那研究者の眼前に�はつて居る」のであった。こういった図式は、21世紀初頭の現在も同じだ。

今年は中華人民共和国建国から70年である。前半の30年ほどの毛沢東の時代を見ても、1950年代の半ば以降、言論の自由を掲げた「百花斉放・百家争鳴」運動から始まり、反右派闘争、大躍進政策、そして文革。文革をみても当初の敵である劉少奇を打倒すると、次は「毛沢東の親密な戦友」であったはずの林彪が毛沢東の敵とされ、やがては林彪と孔子とを一緒くたに批判する批林批孔が展開され、遂には毛沢東の側用人として文革の旗を振りまくった四人組が批判され・・・何が何だか判らないままに「毛沢東の敵」が目まぐるしく入れ替わる状況が連続したにも関わらず、人民は対応している。どうやら、この辺に「支那の民論の價値」があるように思う。ともかくも変幻自在で融通無碍なのだ。

 「支那の民論」を前にしては反中・嫌中も親中も・・・暖簾に腕押し、糠にクギ。《QED》

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