――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘68)「蔣介石」(昭和3年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房)

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘68)「蔣介石」(昭和3年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房)
【知道中国 2108回】                       二〇・七・念六

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘68)

「蔣介石」(昭和3年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房) 

橘は孫文を「偉大なる革命理想を懷」いた「偉大なる革命家」として論を進めてきたが、「孫文の東洋文化觀」にも「日本觀」にも必ずしも共鳴しているわけではない。ハワイと香港で西洋式教育を受けた孫文の中国古典理解は不徹底であり、東洋文化と見做す王道思想について確固たる理論的裏付けを欠いていた。さらに日本に関しては専ら孫文に同情し、孫文を支援した日本人に基づいて考え、自分に都合よく捉えていた――これが橘の孫文観だと思う。

孫文亡き後、統一を求めるも中国は四分五裂状況に突入する。その原因の一端は孫文の思想が孕んでいたからだろう。やはり孫文は思想的にも偉大なドン・キホーテだったのだ。

橘は、その孫文の「忠實にして謙虛なる弟子」である蔣介石について論を進める。

先ず橘は蔣介石を「家庭及び彼自身の生活氣分は共に中産階級上層者的――小資産階級的のものであつたことが明白に認められるやうに思ふ」と捉えた。

橘に依れば「清末以後に輩出した多くのインテリゲンチャ達は、總て中産家庭の出身であ」り、「彼等はその修めた新學問を頼みとして、支配者の地位を手に入れることをその理想として居た」。辛亥革命も、袁世凱による帝政復活の試みも、共に根底には「支配者の地位を手に入れること」を目指した「中産家庭の出身」のインテリによる「安直な政治革命」であった言うのだ。

だが1911年の辛亥革命、1919年の五・四運動、1924年の国民党改造と言う「三次の洗禮を受けた小資産階級インテリゲンチャは、不可避的に新しいイデオロギーを抱き始めた」とし、その「新しいイデオロギー」を、「一、自由民主主義/二、無政府主義的孫文主義/三、儒教主義的孫文主義、/四、資産家的孫文主義、/五、小資本家的孫文主義、/六、無産者(農民及び勞働者)的孫文主義、/七、共産主義」に分類した後、こういった思想を介在させて蔣介石と孫文が結びついているわけではない、と橘は見立てた。

両者の「間柄は他の重要黨員(国民党員)に較べると寧ろ縁故の淺い方であつた」。だが蔣介石の孫文に対して抱いた「英雄的情操は、何人も及び難い程に熱烈なものであつた」。蔣介石の孫文崇拝は「純眞にして且つ情熱的」であり、「實に蔣氏から見れば、孫文は一點一畫の例外もなく彼の全體である」。「孫文と共に考へ、孫文と共に行ひ、孫文と共に革命すると云ふ事が、この忠實にして謙虛なる弟子の願望の全部である」。

かくて橘は「孫文と共に生きる以外に自身の生活は無いと思ひ込んで居る所に蔣氏の強みがある」と結論づける。ということは蔣介石は孫文のクローン人間と見做してもよさそうだ。であればこそ「蔣氏の強み」は同時に弱みではなかったか。

思想も行動も孫文のコピーでしかなかったがゆえに、孫文が左傾化すれば蔣介石も左傾化するわけで、「左傾し切った彼の叫びは、其の實孫文の聲に過ぎなかつたのである」。

孫文死後、蔣介石は「先輩たる汪精衞及び廖仲愷氏の指導に從」っていた。廖仲愷が生きていた間は毛沢東や周恩来のように国民党入りした「共産黨員の非國民黨的行動を抑へ」られたが、廖仲愷が1925年に亡くなり、残された汪精衞では共産党員の抑えが効かない。

 そこで1926年3月に勃発した中山艦事件を機に、蔣介石は「共産主義者は孫文の遺産たる國民黨破壞の陰謀を蓄へて居ると信ずるに到つた」。「この先入見に捉はれて後」、蔣介石は孫文の「遺した左翼民主主義的理論及び政策を悉皆打忘れ、事毎に共産黨と衝突しつゝ、知らず識らずの中に急速に右傾した」。その行動は客観的には孫文に背くことになるが、「併し主觀的には疑もなく孫文崇拝の灼熱せる感情に導かれたものであり」、やがて「前非を悔いて理論的に汪氏の許に立歸つた」。蔣介石の“孫文信奉”・・・ここに極まれり《QED》

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