――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘78)
「武漢政府失敗の二大因由」(昭和3年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房)
「純粋にして唯一の革命勢力――美しい言葉を弄さず、学識を自慢せず、妥協せず、疲れを知らず、屈することのない、いかなる有産階級からも独立した非政治的な人民的社会革命勢力」と、匪賊を革命勢力の一翼として称賛していたのは、ロシア無政府主義者のバクーニンだった。
毛沢東もまた「これらの人々(兵士、匪賊、盗人、乞食、売春婦たち)には勇敢に闘う力が潜んでいて、適切な指導があれば革命勢力の一翼を担うことが出来る」と、バクーニンと同じように無頼漢を革命勢力と声高に語っている。やはり都市のインテリ革命家でないからこそ、毛沢東が頼みとしたのは広大な地方農山村に屯す無頼漢であり、彼らを“無産者革命の前衛”に変身させることが毛沢東式暴力革命成功のカギだったはずだ。
青年毛沢東にとっての愛読書であった『水滸伝』は追い詰められた貧農の武装蜂起という史実を下敷きにして描かれた小説であり、梁山泊の実態は匪賊の塞だった。毛沢東の口癖は「梁山泊の英雄を見習え」であり、主著『矛盾論』では梁山泊の指導者である宋江の振る舞いを題材に中国が抱えた病弊を哲学的に説いていた。
人民解放軍の生みの親とされる朱徳は自らが参加した哥老会について、「軍閥連中に較べればずっと正義感もあり、尊敬すべき同胞であった」と回想しているが、窮すると直ちに寝返ったり退却したりする匪賊の振る舞いを「革命勢力としての限界」と見抜いてもいた。
だが匪賊上がりで共産党の軍事指導者となった賀龍は、次のように匪賊を肯定的に捉えている。
「野蛮ではあるが、連中にも取柄はある。生真面目で、威勢よく、鼻っ柱が強い。表面を取り繕うようなことはしない。だが、ひとたび人を信頼すると、死をも地震をも恐れずに信頼を貫こうとする。官職であれ金品であれ、なにを差し出そうが、もはやそういう男を買収することは不可能だ。兎も角も勇敢であり、わたし一人につき従って、命を捧げてくれた者がたくさんいる」(フィル・ビリングズリー『匪賊 近代中国の辺境と中央』筑摩書房 1994年/アグネス・スメドレー『偉大なる道 朱徳の生涯とその時代(上下)』岩波書店 1977年)
結論的に言うなら毛沢東率いる共産党は、それ以前の革命勢力とは異なり匪賊を利用した。匪賊と友好関係を結び、匪賊固有の戦術戦法(ゲリラ戦)を取り入れる一方で、党の組織原理で彼らを縛り付け、共産党軍(紅軍)に同化させ、組織に組み入れることに成功した。もちろん、その前提に共産党自らが匪賊のような存在であったことも指摘しておきたい。彼らの根拠地は匪賊の塞と同じような地理的環境に築かれていた。その象徴が「革命の聖地」と呼ぶ井岡山や延安だ。共産党が見せる匪賊性は、生まれながらのものだろう。
革命が成功するや、共産党が匪賊に論功行賞を与える訳でも、社会でのさばらせておいた訳でもない。ぶちのめし、容赦なく使役し、反革命分子として抹殺した。建国前後の土地改革、1950年代初頭の数年間に連続的に行われた反革命分子鎮圧、抗米援朝運動、三反五反運動などによって、“元匪賊”は窒息させられていった。匪賊も敵わぬ超匪賊性!
どうやら橘の語った中国革命は都市のインテリが唱える革命に近く、中国社会を圧倒する農山村の民に目を向けてはいなかった。であればこそ、「中國の社會運動における無頼漢の危險性に對して、深い省察を缺いて居るのだと見ても大過なさゝうに考へられる」などという「大過」を犯してしまったのだろう。
次に橘は「武漢政府失敗の二大因由」と題し、武漢政府崩壊後の国民党、共産党、コミンテルンについて論じている。その後の中国の動きを見る上で興味深いところだ。《QED