――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘69)
「蔣介石」(昭和3年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房)
その後、国民党内は四分五裂状況で推移するが、蔣介石は1926年に国民革命軍総司令に就任し軍権を握り北伐を開始する。この当時の蔣介石を、橘は軍事指導者としてはともかく政治指導者としては余り評価してはいない。
たとえば1926年3月から27年4月の南京政府設立までの間にみせた「右翼的行動は、孫文の指示した途に外れて居た」ばかりか、「思想的にも階級的にも何等判然たる背景を持つものではなかつた」。この頃の蔣介石の行動基準は「唯共産黨員及び左翼的國民黨が孫文の遺産たる國民黨を亡ぼすであらうと云ふ獨斷に出發した義憤及び特別の負けぬ氣」でしかなかったとの橘の指摘は、その後の蔣介石の人生にも当て嵌まるように思える。
やがて「共産主義者の勞働運動に困り抜いて居た上海資本家階級」は「蔣氏に接近し、『打倒共産黨』を條件として(蔣介石率いる)南京政府に對する財政的援助を約束し」た。
かくして蔣介石は北伐途上の1927年4月、上海で共産党に壊滅的打撃を与え、以後の覇権を確固とした。もちろん、「主として上海を中心とする浙江及び江蘇資本家階級」の支援があったからであるが、そこで「反對給付として資本家階級は南京政府に對し強い發言權を與へられた」。かくして以後の蔣介石は、それまでの「無政府主義的乃至儒敎的孫文主義」を捨て「資本家的孫文主義へと移った」というのだ。
それにしても「無政府主義的孫文主義」「儒敎的孫文主義」「資本家的孫文主義」と並べられても、肝心の「孫文主義」が曖昧模糊として解らない。じつは橘は「孫文の革命思想」と題した論文で孫文を「(出自から判断できるように)思想に於ても閲歷に於てもプロレタリア階級の代表者である」と捉えた後、以下のように説いている。
「彼の思想には幾多の矛盾があり、彼の行動には幾多の失策が有つたけれども、而も彼は今日の文明社會に於て最大なる無産階級指導者の名譽を擔ふに足る偉人である」。
「孫氏は中國革命同盟會の創設を稍得意らしく回顧するのであるが、併し彼の革命主義の全體から見ても、殊に其の基調を爲すところの階級精神から見ても、同盟會の出現は寧ろ彼を深い陷穽に導いたところの誘惑であつたと言へないであらうか」。
「孫氏は二十年の苦鬪の末に清朝に勝つ事が出來た。併しながら彼は官僚階級の偉大なる勢力に逢着して見事に背負投げを喰はされた」。
「(清朝を倒し中華民国となった後、階級闘争が本格化した)。階級鬪爭とは支配階級即ち官僚階級と被支配階級即ちブルジョアジー及びプロレタリアートの利害、感情及び思想の衝突である。ブルジョアジーには纏まつた指導者と云ふ者は無いが、プロレタリアートには其のヒーローとして我が孫文氏がある」。
ここから、中国社会は支配階級としての官僚階級と被支配階級であるブルジョアジーとプロレタリアートから構成されていて、「我が孫文氏」をプロレタリアートの「ヒーロー」と見做している――以上が橘の考えとなるだろう。
これに加えて橘は「軍閥及び官僚階級を何等かの手段で克服せねばならぬ歷史的使命を負はされて居る」のが「中國資産階級」であり、「この使命は勿論國民革命のプログラムの中に缺くべからざる」ものだ。
1927年4月に上海で共産党勢力を排除し国民党を掌握して以降の蔣介石に対し、「一方に資本家階級を導いてこの使命の爲に努力せしむると同時に、他面、小資本家的孫文主義と提携して資本家勢力の過度の膨脹を牽制することが、孫文の民生主義に託した理想の途に合致する所以であらうと思ふ」と、橘は期待を寄せる。だが、その後の蔣介石が「資本家勢力の過度の膨脹を牽制する」ような行動に踏み出す・・・ことはなかった。《QED》