――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習117)
もう少し、文革時代の猛説(妄説!)に耳を傾けたい。
「人びとの作風というものは、定まった世界観によって決定される。プロレタリア階級の世界観はプロレタリア階級の作風を生み、ブルジョワ階級の世界観は必然的にブルジョワ階級の作風を表すことになる。ブルジョワ階級の世界観を大いに打ち破ることで、唯心精神をサッパリと洗い流し、弁証法的唯物主義と史的唯物主義によって構成されたプロレタリア階級の世界観を打ち立ててこそ、我われの作風を徹底的に改め、党と人民の求めに応ずることができるのである」
かくて最後は、「偉大なる社会主義の祖国は日々に発展している。偉大なる毛主席を頭領とする中国共産党の導きがあり、偉大なる中国人民解放軍をプロレタリア独裁の強い支えとし、偉大なる中国人民の英雄的戦いがあってこそ、未来への道を妨げる一切の障害物を取り除き必ずや前進勝利し、我われは社会主義革命と社会主義建設においてさらに大きな勝利を奪取することができる!」と結ばれるのであった。
なにやらワケの分からない屁理屈を重ねているようだが、とどのつまり目的は手段を規定する。目的を達成するためには目的に沿った正しい手段を踏む必要がある。間違った手段に拠るなら、正しい目的を達成することは不可能だ。「偉大なる社会主義の祖国」においては、「偉大なる毛主席を頭領とする中国共産党の導き」を手段としなければならない。そうしてこそ、「偉大なる中国人民解放軍をプロレタリア独裁の強い支えとし、偉大なる中国人民の英雄的戦い」を実現させ、「社会主義革命と社会主義建設においてさらに大きな勝利を奪取する」ことが出来る――と言うことだろう。
これを現実の動きと重ねてみるなら、毛沢東が強行した没義道極まりない大躍進の失敗で極度に疲弊した経済を、たしかに劉少奇はV字回復させた。だが、個人的所有を刺激するという手段が間違っている。劉少奇の手腕で混乱した社会が回復に向かっていたように見えたが、じつは手段が間違っているから「社会主義革命と社会主義建設においてさらに大きな勝利を奪取する」方向に進むことはなく、とどのつまり「偉大なる社会主義の祖国」を堕落した資本主義に導いてしまう――と言うことのようだ。
このリクツを一気に現在に持ち込むと、
強固な政権基盤を確かなものにした共産党独裁によって「偉大なる社会主義の祖国」における「中華民族の偉大な復興」を成し遂げ、「中国の夢」を実現させる――この目的を導く手段を探ると、どうやら1976年9月の毛沢東の死に際して中国の最高権力機構である中国共産党中央委員会、中華人民共和国人民代表大会常務委員会、中華人民共和国国務院、中国共産党中央軍事員会が連名で発表した「全党、全軍、全国各民族人民に告げる書」(以下、「告げる書」)に行き当たる。
「告げる書」は毛沢東を「中国共産党、中国人民解放軍、中華人民共和国の創立者で英明な指導者である」と称え、「我われは断固として毛主席の遺志を受け継ぐ」と6回繰り返し、決意の固さを示す。ここで問うべきは「毛主席の遺志」になるが、政権3期目に入った習政権との関連で考えると、やはり注目は「�小平批判を深化させ、〔中略〕ブルジョワ階級の法権を制限し、我が国プロレタリア階級の独裁をより前進させる」の一項だろう。
なぜ「�小平批判を深化」させねばならないのか。父親である習仲勲の仇討ちとの珍説も囁かれるが、やはり個人的恨み辛みではなく、やはり「毛主席の遺志」に由来する。阿里巴巴(アリババ)の馬雲を筆頭とする巨大IT企業経営者に対する“圧力”にしても、「ブルジョワ階級の法権を制限」との「毛主席の遺志」が支えていると考えられる。
やはり死せる毛沢東、生ける習近平を奔らす・・・の感を強くするのだ・・・が。《QED》