――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習184)
もう少し、『祖国的好山河』の主張を見ておきたい。
「我われは既に偉大なる勝利を得た。だが今後の任務は艱難極まりなく更に偉大である。我が国人民は偉大なる領袖である毛主席の偉大なる領導を持ち、中国共産党という領導の核心を持ち、さらにマルクス・レーニン主義路線を持つがゆえに、断固として敗れることなく向かうところ敵なしである。我らの目的は達成しなければならない。我らの目標は必ずや達成されるのだ」――
かくして自然は自らのために解放・改造されるべきものという彼らの自然観が、中国における環境破壊の根底に横たわっているのだろう。このまま「中国共産党という領導の核心を持」つ彼らによる「広大な自然界の解放」や「自然改造闘争」を野放しにすれば、やがて地球全体を“祖国的好山河“と見なして「自然改造闘争」に乗り出すこととなる可能性は大である。これを杞憂と言う勿れ。人類が直面する大難題と深刻に考えるべきだろう。
『祖国的好山河』で自然について論じた後、次は心の問題を扱う『中国古代両種認識論闘争』(上海人民出版社)を読むこととする。
「人類における全哲学史とは、とどのつまりは唯物論と唯心論、弁証法と形而上学の2種類の宇宙観の闘争史である」との視点から、春秋戦国時代から前漢・後漢、隋唐、両宋の時代を経て明清までの中国哲学における2つの流れを簡明に論じ、「春秋戦国から明清までの古代において対立する認識論闘争は、唯心論の反動的本質を徹底して暴露している」と結論づける。
それはそうかもしれないが、では、なぜ中国哲学史上の唯物論と唯心論の闘争が文革と関連するのか。そんな疑問も、最後まで読むと“氷解”する。じつは古代の奴隷主・地主階級、彼らのお先棒を担いだ学者、さらに彼らが祭り上げた“聖人”たちは人民を搾取し抑圧してきた犯罪者であり、その系譜に劉少奇らも連なる。かくて劉少奇勢力を、「腐り果てた精神武器を持ちだし、プロレタリア階級と革命人民、さらには戦って敗れることのないマルクス・レーニン主義と毛沢東思想に刃向かって無謀にも戦いを仕掛けてきたのだ」と斬り捨てた。
だが考えて見れば、面妖な話である。目の前の政敵である劉少奇の“政治的大犯罪”を暴き、劉打倒の正当性を示すために、春秋戦国時代以来の哲学論争とやらを持ち出すなどという回りくどい方法を採らなければならない理由が判らない。ウソでもコジツケでも構わないから、劉少奇は“我らが聖人”の毛沢東に楯突いたクソ野郎だからダメとスパッと切って捨てれば良いだけだろうに。
こう考えると、やはり毛沢東原理主義者であったとしても、自らの主張の正しさを支える論拠として歴史と伝統に頼らざるを得ないらしい。たしかに中国人は歴史と伝統を異様なまでに誇る。だが、それは彼らが歴史と伝統の獄に安住したままの一種の“自閉症”の逆の表現かもしれない。
『中国古代両種認識論闘争』は劉少奇批判を唯心論批判に結びつけ、その先に唯心論者にとっての至高の存在である孔子を描き出す。こう考えると、来るべき批林批孔運動の前兆と見なすこともできそうだ。
次に『藍色的海疆』(紀鵬 人民文学出版社)』、『海的女児 児童文学選輯』(人民文学出版社)、『向陽院的故事』(徐瑛 人民文学出版社)の3作品を紹介するが、これが「超」の1文字を冠したいほどの超文革式文学作品で、読み進むほどの鼻白み、やがて胸クソが悪くなり、かくて読後感はヤレヤレ・ウンザリといった調子だ。
たとえば海防の任務に就く兵士や民兵の真情を謳いあげた詩集とされる『藍色的海疆』から「水兵、『共産党宣言』を学ぶ」を拾ってみると、「海原での演習を終え寄港する航路上、水兵たちは『共産党宣言』を学習する、この旧い世界を打ち壊す戦鼓は、怒濤のように我らが胸底を激しく揺さぶる/嗚呼!これぞプロレタリアの宣言、共産党人の宣言、歴史の歩みにおける輝ける灯火、人類解放の最も壮麗な詩編」と、こんな調子で延々と続くわけだから、やはりタマラナイ。《QED》