――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習66)
残るも地獄、去るも地獄。ならば僅かな可能性を求めて香港に賭けようじゃないか。想像を絶して凄まじくも悲惨な逃避行の末に辿り着いた香港で、ある日、主人公はナチスの残虐な民族浄化策を描いた映画を見て、「共産党と全く同じだ」と呟く。
『血涙斑斑』は、共産党が自らの民族に仕掛けた民族浄化の惨状を告発していたのだ。
ここで唐突だが、1968年出版の『中国案内』(白石凡編 筑摩書房)を紹介しておきたい。それというのも、当時の日本における中国に対する典型的な見方が示されているからだ。
『中国案内』は「世界史に、あらたな歩みをすすめる中国――この巨大な隣国の歴史と革命の本質を解明し、私たち日本人のとるべき道をさぐるシリーズ」として出版された『講座 中国』(全5巻)の別巻。中国の風土、民族、風俗、習慣の解説を配した旅行案内でもある。因みに5巻の書名と編者の名前を挙げると、『� 革命と伝統』(竹内好・野村浩一)、『� 旧体制の中国』(吉川幸次郎)、『� 革命の展開』(野原四郎)、『� これからの中国』(堀田善衛)、『� 日本と中国』(貝塚茂樹・桑原武夫)――こう編者の名前を並べるだけで、大凡の内容は想像出来るに違いない。
1968年を思い起こせば日本のメディアは親毛(=親中)派に占拠され、中国バンザイ、毛沢東バンバンザイを叫び、文革を「史上空前の魂に触れる革命」と狂喜乱舞して持ち上げていた時代の真っただ中であった。しかも『講座 中国』は数多の“日中友好屋”を仕切っていた白石によって編集されたわけだから、別巻と位置づけられた『中国案内』もまた、先に挙げた5巻と同じように中国への大々礼賛に充ち溢れていることは、もはやいわずもがな。どの頁を繰ってもマユツバな上に虫唾が走るようなチョウチン記事ばかり。
率直にいって、これは正真正銘のトンデモ本だ。改めて読み返す必要はない――と、ここまで書いてしまったら身も蓋もない。だが、であればこそ、21世紀も20年余が過ぎた現時点で、気恥ずかしさを堪えながら敢えて読み直してみる必要がありはすまいか。
『中国案内』によれば「感性的、現実的なのが、中国人のものの考え方の特色」であり、彼らは「道義に厚い民族」だそうだ。そこで「鍵の要らぬ国」という一種のキャッチコピーが掲げられる。かくて「ホテルで部屋に鍵をかける必要のないことは、先にも述べたが、泥棒の心配のない国といえば、今日世界広しといえども、中国だけであろう。それどころか、忘れ物でもしようものなら、その品が工作員の手でリレーされて、後から後から追いかけてくる。場合によっては、忘れ物のほうが先まわりして次の目的地のホテルにとどいていることさえ珍しくない。〔中略〕中国には、古くから『道に遺ちたるを拾わず』――道に落ちているものを拾って自分のものとしない――のが、よい世の中だとする言葉があるが、今日の中国では、文字どおりそれが実現されている感がある」と。そんなバカな。
70年代前半、留学生活を送った香港で知り合った複数の元紅衛兵に当時の日本で喧伝されていた“道義国家ぶり”を質問すると、彼は嘲笑気味にこう語ってくれた。
――日本人はお人好しが過ぎる。先ず中国にはモノがないから、一般国民は外国製高級品なんぞ手に入らない。外国人旅行者から盗んで持っていても、誰もが24時間監視されている。家族だって信じられない。誰かに見つかりでもしたら、反革命現行犯で人民裁判だ。ホテルの部屋に鍵をかける必要がないのは、モノ盗り目的で侵入でもして見つかったら、これまた中国人民の面汚し。毛主席の顔にドロを塗ったということで半殺し。人生は終わりさ。忘れ物のリレーだって外国製を持っていることが他人にバレたら、ブルジョワ思想に毒されているとの罪で逮捕。ヘタすりゃ極刑だ。ともかく外国製品を持っているだけで将来は真っ暗。怪しまれないためには、ともかくも当局者に渡すしかないんだ――
白石らは世間を誑かし、害毒を流し続けた。巧言粉飾鮮(すく)なし真・・・。《QED》