――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習65)

【知道中国 2399回】                       二二・七・念八

――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習65)

 梧桐山は広東省内の香港に近接した山であり、大陸を逃れた難民が香港に行き着くために越えなければならない最後の難関であった。梧桐山さえ無事に越えることができれば、その先には明るく輝く香港の街の灯・・・とは言え豊かな明日が確実に約束されているわけではない。だが、なによりも自由はあった。

 「香港暴動」の翌年に出版されているが、『血涙斑斑』のテーマは文革でも香港暴動でもない。それから10年ほど遡った58年、毛沢東が客観情況を無視して進めた急進的社会主義化政策である。

全国を人民公社化し、家庭をぶっ壊し、全員が公社の共同食堂で一斉にメシを食べ、一斉に畑に出て人海戦術で農作業に励み、土法炉と呼ばれた素人手作りの小型溶鉱炉で鉄を大量に生産し、当時世界第2位の経済大国だったイギリスを15年で追い抜き、第1位のアメリカに肉薄しようした。大躍進とは空前の革命ロマンだが、実態は行き当たりばったりのデタラメにすぎず、毛沢東の壮大なる妄想、あるいは革命の蜃気楼にすぎなかったのだ。

 農民である兄は、帰省した医者の弟に向かって、こう訴える。兄の話に『血涙斑斑』のテーマが隠されている。

――「人民公社」なんぞに、お天道さんだって腹を立てていなさるさ。有り難くもなんともネェ。迷惑千万で恨み骨髄だ。幹部はデタラメのし放題だから、おかしくならねえわけがネェ。これといった目論見なんぞ、奴らにゃハナっから有るわけがネェ。経験もネェしワケも判らんからから、ムチャクチャな計画ばかり。そいつを、わしらにおっ付ける。お蔭で農村(むら)はグチャグチャになっちまった。

今月は牧畜を主にするとぬかすから、豚に羊、鶏に鴨、それに苗をしこたま買い込んだァいいが、いいツラの皮さ。その口が乾かねえうちに、翌月になったら工業が柱だなんてホザクき出す始末だ。でもって、全部がオジャン。いったい誰が責任取ってくれるんだい。

仕事の重点をレンガ作りに置け、石を切り出せ。すると次ぎゃ急に農地を拓け、だ。せっかくモノになりかけた養魚池をぶっ潰し、畑だ、田圃だと這いずり回る。深く掘ってびっしり植えろ。植えれば豊作間違いなしだと。バカ言うにも程がある。豚や牛の面倒が見切れねえもんで、とどのつまりゃあ、ヤツらはおっちんじまうことになる――

兄の話は止まらない。

――肥料は足りネェし、草は生え放題で、そのうえ害虫はうじゃうじゃ。これじゃあ穫り入れなんて、どだい無理なこった。それでも幹部はなんとか目標を達成しようと、わしらと家畜に無理難題を吹っかけてくる。

鴨や鶏を供出しろ。さもなきゃあ食糧を配給しねえゾと脅しゃあがるが、供出なんてするもんか。トリの首絞めて自分で食っちまうのさ。食糧の配給がなかったら、盗めばいい。かっぱらえばいいだけのこと。

「人民公社」なんてガタガタだ。わしら百姓は運を天に任せるしかネェ。一日でも生き延びることができたらメッケもん。夢も希望も・・・そんなもン金輪際ありゃしネェ。ましてや将来も考えられネェような毎日を、なんとか生きるしかネェ――

 これが、兄が弟に言って聞かせた「苦幹三年、幸福万代(辛抱三年、幸福一生)」をスローガンに掲げた大躍進の悲惨な実態である。やはり大躍進は壮大なデタラメであった。

かくて著者は「現状好転の見込みは金輪際ありえない。誰も日々の生活に絶望している。生き抜くため、必ず最後には悲惨な争いとなる。暴力を恐れず、誰憚ることなく政府と幹部を罵る。人々の底なしの恨みを思えば、遅かれ早かれ大爆発を引き起こし、大陸は大混乱に陥るはずだ」と考えた。共産党政権への反抗は死に直結するにもかかわらず。《QED》


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