――習近平少年の読書遍歴・・・“あの世代”を育てた書籍(習56)
『美帝国主義侵華罪行録』は最終章「台湾の怨みは深し」で、「人民によって中国大陸から叩き出されたにも拘わらず、米帝国主義は失敗を認めようとはぜず」、「1950年6月には朝鮮で侵略戦争を仕掛け、台湾を軍事占領した」。「祖国最大の宝の島は米帝国主義の殖民地と軍事基地になってしまった」と糾弾する。
最後は「台湾同胞の反米愛国闘争は、祖国大陸人民の声援と支持を得た。中国人民は、古来中国の領土である台湾を断固として米帝国主義の不沈空母にはさせない。中国人民は必ずや台湾を解放する。台湾は必ずや祖国の内懐に戻って来る」と結ばれている。
米帝国主義が中国で、長期に亘って犯した冷血苛酷で悪逆非道の犯罪を暴露し、その一部始終を詳細に説き、若者に米帝国主義に対する殺し尽くしても、切り刻んでも、骨を砕き尽くしても晴れぬほどの恨みを抱かせようというわけだ。
『中国近代史諸問題』は、抗日戦争に参加した経験を持つ“実践的歴史学者”である劉大年(1915~99年)の論文集である。
アヘン戦争(1840年)から建国(1949年)までの111年が中国近代史に区分され、五・四運動までの80年の旧民主主義時代を唯物弁償主義に基づいて研究し、歷史発展と階級闘争における科学的規則を明らかにする。こうして得られた客観性・科学性を持つ認識によって世界を能動的に改造し、可及的速やかに資本主義を消滅させ、共産主義を実現させる。
過去の全ての事象を真剣・鋭意に研究することで、「それらを我々の革命と建設における至上の財産とすることができる」。「社会主義国家、国際共産主義運動、マルクス主義発展の歷史研究は重大な意義を持ち、それは世界各地の革命人民が自らの闘争を効果的に進め、革命発展の過程を加速させることができる」・・・まさにアホダラ経のような同義反復調の記述で埋まる260頁超を読み進むことは、掛け値なしに退屈であり、困難の極みでもある。
だが、「とどのつまり歴史研究は愛国主義を広く伝えること」とフト漏らす辺りに、過度の政治主義の軛から逃れることのできない共産党御用達歴史学者の悲哀が漂う。このように、劉大年の学者人生からも中国における歴史研究が極めて先鋭的な政治的任務を帯びていることが見て取れる。歴史研究は、やはり過度に先鋭的な政治闘争の場であった。
毛沢東派対非毛沢東派の鬩ぎ合いが続いたような65年が終わると、劉少奇に対する毛沢東の憎悪が「回帰不能点(ポイント・オブ・ノーリターン)」を飛び越えて沸点に達し、いよいよ「人類史上空前の魂の革命」と定義づけられた文革へと突き進む。
遂に運命の66年の幕が切って落とされ、文革という地獄の釜の蓋が開くことになる。
文革に関連する重要な出来事を、時系列に沿って日誌風に詳細に綴った『文革大年表 淵源・革命・餘波』(趙無眠 明鏡出版社 1996年)の頁を繰ると、66年に入るや記事分量は一気に増し、1日単位の詳細な記述となる。1月21日には江青が上海から蘇州に向かって林彪を訪ね、人民解放軍における文芸工作の文革路線化を進めることを呼び掛け、2月に入るや2日から20日まで、上海を舞台に林彪と江青の共同作戦が本格的に動き出した。
それ以降、張春橋、姚文元、康生、陳伯達、王任重、関鋒、戚本禹、聶元梓、蒯大富らが毛沢東の手足となって蠢きはじめ、これに呼応するかのように紅衛兵が組織だって暴れだし、8月18日には北京はもとより、上海、天津、武漢、広州、ハルピン、遠くはウルムチからの参加者を加えた100万人の紅衛兵を天安門広場に集め、毛沢東が楼上から接見した。文化大革命の号砲が鳴らされた瞬間である。
この間、劉少奇・王光美夫妻はパキスタン(3月26日~31日)、アフガニスタン(4月1日~8日)、パキスタン(再訪:4月15日~17日)、ビルマ(同月17日~19日)と外遊している。油断なのか。あるいは毛沢東派の策動を深刻に捉えていなかったのか。《QED》