――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港160)
今から振り返れば(いや、振り返らなくても)、たしかに何物かに憑かれたかのように第六劇場にのめり込んでいた。我ながらそう思うのだから、傍目にはさぞや奇異に映ったことだろう。だが行き掛かり上、この道はトコトン突き進むしかない。
なぜ、そこまで惚れ込んだのか。それが分らないのだが、そんな立場から至極納得する文章にぶつかった。1つが日本人のそれであり、1つが自らの戯迷振りを「見て見て見まくらずにどうして辛抱しておれよう」と肯定した中国人のものだ。
最初に挙げる日本人とは、芥川龍之介である。
中国共産党第1回全国大会が開かれた7月1日を3か月ほど遡った1921(大正10)年3月24日、芥川は上海の埠頭に降り立った。今から百年前の上海と北京を中心に歩き回り、有名無名の中国人と話を交わし、『支那游記』(改造社 大正14年)を記した。
芥川は上海でも北京でも、当時の中国においても本場の戯遊を凌ぐほどの戯遊と評判の高かった村田烏江や辻聴花などに連れられ、京劇小屋の木戸を潜っている。
「支那の芝居の特色は、まず鳴物の騒々しさが想像以上な所にある。殊に武劇――立ち回りの多い芝居になると、何しろ何人かの大の男が、真剣勝負でもしているように舞台の一角を睨んだなり、必死に銅鑼を叩き立てるのだから、到底天声人語じゃない。実際私も慣れない内は、両手で耳を押さえない限り、とても坐ってはいられなかった。が、わが村田烏江君などになると、この鳴物が穏やかな時は物足りない気持ちがするそうである。のみならず芝居の外にいても、この鳴物の音さえ聞けば、何の芝居をやっているか、大抵見当がつくそうである」と、呆れたかのように綴った。
それから、「『あの騒々しい所がよかもんなあ。』――私は君がそう云う度に、一体君は正気かどうか、それさえ怪しいような心もちがした」と続ける。
第六劇場に通い詰めた頃を思い起こせば、やはり村田の「あの騒々しい所がよかもんなあ。」の思いは痛烈に納得だ。半世紀昔の学園闘争激しき頃の“慣用句”を使うなら、「イギな~し」。誰がなんと言おうと、やはり「あの騒々しい所がよかもん」なのである。
だが一歩引いて振り返れば、「一体君は正気かどうか、それさえも怪しい心もちがした」と綴る芥川の“憐憫の情”もイタイほど身に滲みて判る。たしかに日本人的感覚に則るなら、「あの騒々しい所」は決して「よかもん」ではないはずだ。
次いで芥川は舞台から客席に視線を移し、「客席で話をしていようが、子供がわあわあ泣いていようが、格別苦にも何にもならない。これだけは至極便利である。・・・現に私なぞは一幕中、筋だの役者の名まえだの歌の意味だの、いろいろ村田君に教わっていたが、向う三軒両隣りの君子は、一度もうるさそうな顔をしなかった」と、雑然とした観劇風景を意外に楽しんだようだ。だが楽屋の汚さには閉口したらしい。
村田烏江の案内で楽屋を訪れる。「兎に角其処は舞台の後の、壁が剥げた、蒜臭い、如何にも惨憺たる処」であり、そこを「なりの薄汚い役者たちが、顔だけは例の隈取をした儘、何人もうろうろ歩いている。それが電灯の光の中に、恐るべき埃を浴びながら、往ったり来たりしている様子は、殆ど百鬼夜行の図だった」。その汚さには閉口頻りの態だった。
さすがに村田は楽屋でも顔である。美形で有名な旦(おやま)を紹介され挨拶するのだが、「私は彼自身の為にも又わが村田烏江の為にも、こんな事は書きたくない。が、これを書かなければ、折角彼を紹介した所が、むざむざ真を逸してしまう。それでは読者に対しても、甚済まない次第である。その為に敢然正筆を使うと、――彼は横を向くが早いか、真紅に銀糸の繍をした、美しい袖を翻して、見事に床の上へ手洟をかんだ」のである。
芥川の呆れ顔が眼に浮かぶが、美形の旦役者の“手練の早業”もステキなのだ。《QED》