――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港80)

【知道中国 2198回】                       二一・二・仲五

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港80)

 

では棺はどのような手続きと順路で故郷に“宅配”されるのか。オタク趣味が過ぎるかとは思うが、その順路を追ってみたいと思う。

そこで取り上げたいのが、北米で最も早い時期に組織化された代表的な相互扶助団体として知られるサンフランシスコの美洲金山致公総堂(CHEE KUNG TONG SUPREME CHINESE FREE MASON OF THE WORLD)から東華義荘の上部組織である東華三院宛に送られた書簡である。

致公総堂とは、17世紀半ばの明から清への王朝交代期に清朝への抵抗運動を展開した明の遺臣・史可法の幕僚である洪英を始祖とする反清団体が源流とされる。名前の由来は一致団結を意味する「致力為公」といわれ、19世紀半ばに興った太平天国が滅亡した1864年以降、中国南部から多くが海外に新たな生活空間を求めて移動したことに伴って、その活動拠点を海外に移していた。

華僑とは喰いはぐれた労働者(華工)が生きる道を求めて裸一貫で異土に渡る“現象”だが、その結果、彼らの生き方をも海外に伝播させてしまうことを忘れるべきではない。

1863年前後のサンフランシスコでのアメリカ洪門致公堂組織化を機に、アメリカ各地に分堂(=支部)が結成され、以後、在米華僑の相互扶助・慈善活動を続けてきた。

洪門致公堂は19世紀末から20世紀初頭にかけ孫文の革命運動に協力し、1902年にはサンフランシスコで『大同日報』を発行する一方、1925年に華僑のための政党として中国致公党を結党している。

中華人民共和国の建国を定めた1949年9月の全国人民政治協商会議第1回全体会議には、中国国民党革命委員会、中国民主同盟、中国民主建国会などと共に8政党からなる民主諸党派の一派として参加した。だが、建国後は独裁政権下であればこそ独自の政治活動ができるわけもなく、主に帰僑(帰国華僑)や僑眷(華僑の親族)の支援に当たっていた。

在外中国系(華僑や華人)を「欧米帝国主義勢力の手先」「堕落した文化の担い手」「中国人民の敵」と蛇蝎のように罵っていた文革中は活動停止状態を余儀なくされていたが、�小平が掲げた開放政策と共に息を吹き返し、現在は「中国統一・台湾の祖国復帰」を活動の柱に掲げる。国外に目を転ずると、ハワイなどの分堂では旧来型の互助・慈善活動が続けられていると伝えられる。

そこで「(民国)十二年」、つまり1923年12月21日の日付のある書簡を見ておくと、

――致公総堂会員の黄鳳華博士なる人物が死亡したので、その遺骸を12月29日にサンフランシスコから出航する太平洋公司所属の「林肯市総統輪船(プレジデント・リンカーン号)」に委託し、「運回祖国帰葬黄土、以正首丘(祖国に運び返し、埋葬して黄土に戻し、望郷の念を遂げさせたい)」。ついては、当該船舶が香港に到着した際には棺を受け取り、併せて「伊家属(その遺族)」と連絡を取り、「搬運博士霊?回原籍安葬(博士の棺を運搬し故郷に戻し葬る)」ことを願いたい。

博士の原籍は肇慶四会で、弟の黄京は広州市南濠街某番地に居住している。500香港ドルを同封するので、博士の親属である黄京先生に葬儀費用とすべく渡してもらいたい――

この書簡に対し、医院側は翌年6月1日付けで美洲金山致公総堂に対し、概略次のような返信を送っている。

――昨年12月に「貴堂」がプレジデント・リンカーン号で託送された「黄鳳華霊柩一具、並葬費港銀五百大元」は確かに受領した。「黄鳳華霊柩」は「本港」の永生源号の手で故郷に送り葬ると共に500元は黄京に渡しました。ここに領収書を送付し報告致します――

 東華義荘を仲立ちに、じつに事務的・機能的に棺は“宅配”されていたわけだ。《QED》


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