――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港70)
街を散策していると、「支那人の盛んな葬列に出会った」。「旗、花、人形、供物、馬、船、等々、長さ四五丁に亘る行列で、暫く立って見ていたが、上の坂から柩の現れるのを待ちきれないで船に帰った」。もう少し我慢して待っていれば巨大な柩がやってきたものを、残念なことをしたものだ。
野上はアメリカ人宣教師らの香港探訪記を引用しながら、香港を次のように紹介した。
「イギリスはもちろん地勢の上から此の島を東洋進出の足場として必要と認めたのであろうが、同時に、イギリス人一流の開拓方法として、まず山に植林し、漁村を都市に造り上げ、今日見る如き『庭園都市』として完成したのである」。
「見たところ、上海より小奇麗にまとまって、山の半腹以上まで町が這い上がっているので殊に絵画的である。香港の商人も上海の商人の如くに贅沢に暮らしているが、享楽の機関は上海に較べるとずっと少ない」。
野上の香港滞在は僅かの2日間だけ。それゆえに「われわれのあわただしい香港見物は、舞台裏や幕間の見せ物はおろか、大向の舞台見物さえする暇はなかった。ただ香港の島を一周して、ホテルの支那料理を食っただけに過ぎなかった」わけだが、「それでもこれだけのことは感じた」と綴る。香港と香港の住人について興味深い指摘が見られるので、やや長いが敢えて引用しておきたい。
「――香港は、イギリスが支那から取り上げて造ったイギリス風の町ではあるが、抜け目のない支那の商人は(この際到る所にうじゃうじゃして居る苦力のことは考慮の外に置くとして)イギリス人に開拓させた町の中に巧みに食い込んで(上海とてももちろんそうだが、)支配されながら支配しているのだ。イギリスは百年前に戦争で支那に勝ち、その後の百年間に財的に次第に支那に復讐されつつあるのだ。おそるべきはイギリスの勢力ではなく、神秘的な支那民族の底力である。香港・上海が今後どうなるかは知らないが、其処に潜入してる支那の財的勢力は政治軍事の表面の勢力よりも一層警戒すべきものではなかろうか。それは単なる経済学の問題ではなく、民族学・民族心理学・国際文化の問題である」。
もう少し続ける。
「香港から百五十キロほど北西へ入江を入って突き当った所に広東(カントン)があって、これも根強い支那民族の活動の源泉地の一つとなっているが、その物騒な空気は西洋人をひどく警戒させて、Don’t go to Cantonということが彼等の間で諺になっているそうだ。われわれは行って見たいと思っても行くことがなかった。それに何だかその方角にはただならぬ雲行きが感じられた」。
夏目漱石門下の英文(演劇)学者で、能楽の研究と海外への紹介に尽力し、総長として敗戦後の法政大学再建に尽力した野上の経歴からして、香港に対する深い歴史知識を持っていたとは思えないし、中国をめぐる当時の極東・国際情勢に通暁していたとも考えられない。だが、「支配されながら支配している」との香港の商人の振る舞いに対する見方も、ましてや「それに何だかその方角にはただならぬ雲行きが感じられた」との直感も鋭い。
1941(昭和16)年12月8日の啓徳空港爆撃から始まった日本軍の香港攻略は、早くも25日に完了する。26日に軍政庁が、年が明けた1942年1月19日には磯谷廉介中将を総督とする総督府が置かれ、1945年8月15日までの3年8か月の日本統治時代が始まった。
1941年には164万人ほどを数えた人口は45年には65万人にまで減少し、46年には155万人に回復する。5年ほどの間、100万ほどの香港住民は大陸に逃れ、再び香港に戻った。
日本時代も香港の商人は「支配されながら支配している」のであった・・・だろうか。《QED》