――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港58)
遣米使節一行以後、遣欧使節(竹内下野守一行)が1862(文久二)年に、遣仏使節(池田筑後守一行)が1863(文久三)年に、遣英・仏使節(柴田日向守一行)が1865(慶応元)年に、遣露使節(小出大和守一行)が1866(慶応二)年に、遣仏使節(徳川民部大輔一行)が1867(慶応三)年に香港を経由している。すべてが往復ともに短時日の立ち寄り程度だが、それでも日本、あるいは日本人にとっての香港の姿がほの見えてくるようだ。
たとえば竹内下野守一行の場合、文久二年正月元旦に船中で屠蘇を口にして新年を祝って長崎を出港し、6日後に香港に到着している。
「清人の料理を懇望して、清朝の酒を飲み手始めて微醺を得たり清朝の酒は日本の本直しという酒に味い似たり」(『欧西紀行』)というから、派遣の主たる狙いが樺太問題に関してのロシアとの交渉にあったはずなのに、物見遊山とまでは言わないものの、存外に幕末の緊張が感じられない。香港で味わう「清人の料理」に「清朝の酒」とは、当時すでに“食は香港に在り”だったのか。
一行の中に市中で洋靴を買い込んで履き心地を楽しんでいた者もいた。その行為を副使の松平石見守が見咎め、国風を蔑ろにするものは即刻帰国させるぞ、と叱責する。さて、「そこもと、これへ直れ。その乱れたブザマな姿はなんだ。毛唐の真似ごとなんぞを・・・えーい、国風を紊すとは不届き千万。武士(さむらい)たる者の為せる所業か。拙者、遣欧使節副使としては断固として許すわけにはいかん。恥を知れ、ハジを」などと大声を張り上げでもしただろうか。この時、石見守は33歳。
帰路の香港寄港時、一行は日本からの公文書を受け取っている。ならば、すでに江戸と香港の間では――定期か不定期かは別にして――公文書のやり取りがあったと考えられる。
じつはシンガポールに立ち寄った際に手に入れた香港の新聞で、一行は3か月ほど前に起こった生麦事件についての情報を得ていた。公文書で「国内の政変、攘夷説の盛んなるを知り、船中の外人に対して面目なく、また英字新聞は盛んに日本に問罪の師を送るべし、日本の攘夷論は兵力をもって撲滅せざるべからずと論じ立てあるを見、船中は憂慮やら慷慨談やら」(尾佐竹猛『幕末遣外使節物語 夷狄の国へ』岩波文庫 2016年)だったとか。
当時の香港は、日本人が列強の動向を知るための窓口でもあったらしい。
その後、香港に関する日本人の記録は、目下のところは『觀光紀游』(明治25年)、『漫游見聞録』(明治18年)まで不明だ。前者は岡千仭(天保4=1833年~大正3=1914年)が、後者は黑田清隆(天保11=1840年~明治33=1900年)が記したものであり、2人は共に清仏戦争(1884年~85年)前後に香港で出会っている。
すでに『觀光紀游』は1260回~1346回、『漫游見聞録』は1347回~1364回で読んでいるが、改めて香港部分を簡単に振り返っておくことも必要だろう。
岡の香港上陸は1885(明治18)年1月11日で、「宏荘にして瑋麗。日中諸艦の比に非ざる」ような「英國郵船」に乗船して香港を離れたのは4月10日。1年ほどに亘る中国旅行で崩した体調回復が目的の滞在だった。この間、短時日だが広州に出向いている。
当時の香港を、岡は「人口は16万400人。7970人がイギリス人、1720人が異邦人、15万700人が『中人』である。歳入は120万9517ドル。土木の建設整備と人件費ほか一切の費用は香港で調達する。別に2万ポンドを防衛費に充てる。イギリスが同地を開いた目的は商権を拡張し、軍威を輝かせることにあり、それゆえに巨万の富を惜しげもなく注ぎ込んだ。この島がイギリスの手に帰したがゆえに、東西交流は日に日に隆盛を極めるが、それは単にイギリス一国を利するだけではない」と見ていた。
「商権を拡張し、軍威を輝かせる」ために、イギリスは香港を殖民地化したのだ。《QED》