――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港59)

【知道中国 2177回】                      二〇・十二・卅一

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港59)

 

香港到着4日後は春節。大晦日から元旦の香港の街を、岡は次のよう綴った。なお『觀光紀游』は全文が漢文で綴られているので、適宜現代文に訳しておいた。

 ――14日は「中暦除夕(しゅんせつのおおみそか)」。香港の法律で爆竹禁止だが、この日は例外。夕暮れと共に街全体が振動したかのように爆竹が鳴り響き、明け方まで続いた。

 「中土(ちゅうごく)」の風俗は不可解極まりない。墓は風水によって決められるし、「仙佛巫祝(なんでもかんでも)」も信じている。そこここに「淫祠(いかがわしきかみさま)」が祀られ、ロウソクの火が絶えることはない。毒であることを知っているくせに、アヘンが止められない。冠婚葬祭や節句となったら爆竹だ。こういったバカバカしさは、士大夫が「理(ものごとのことわり)」が解らず、口で「道(どうり)」を説きはするものの、その「道」を篤く信じてはいないことによって起こるのである(2月14日)――

 一夜明ければ元旦。

 ――街は晴れ着で飾り年始回りに歩く男女で賑わいを見せている。少女が髪を結ぶ長い赤い紐は背中から地面に届くほどに垂れ下がる。戸外に貼られた紅紙に「蓬?は壽色(よろこびのいろ)を呈(あらわ)し、松竹は祥烟(めでたきけむり)を繞らす」などと目出度い聯句が大書されている。中国の風俗は紅色を尚ぶから街の看板、寺廟の扁額、名刺や封筒はみな紅色だ。欧州人は児童が好むので、紅色を「幼穉色」と称している、とか。

 いまや「萬國風氣(こくさいじょうせい)は一變し」、知識は日進月歩の時代だ。にもかかわらず「中人」は「千年古轍(ふるくさくかたいあたま)」を墨守し、日々の変化がもたらす成果を知らない。であればこそ、「幼穉」と指摘されても致し方ないだろう。(1月15日)――

 殖民地である香港が経済活動の柱としている「自由放任主義(レッセフェール)」についに興味を持った岡は、詳細な聞き書きを残している。それを要約しておくと、

 ――「中土」では各港に海関を置き、輸出入品に税を掛け徴収している。だが香港だけは違っていて、海関が置かれていない。だから内外の遠方の交易商人であろうが、香港での取引を求める。例えば四川では漢方薬が取れるが、遥々と長江を下り大海を帆走して香港までやって来て商いをする。そでは偏に税を取られないからだ。

 その代わり香港では、ありとあらゆる方法で細大漏らさずに税を納める仕組みが張り巡らされている。土地の広さ、屋敷の規模に応じて税を納めねばならない。これを「国餉」と呼ぶが、この他には街灯・井戸・泉・道路・橋といわず、修理に要する費用は、家ごとに醵出する。「酒亭茶店。烟館妓院(ふうぞくえいぎょう)」は月ごとに課税する。「艇子輿夫。負販傭丁(せんどう・かごかき・やたい・にんそく)」は季節ごとに「牌片(かんさつ)」を給付して課税する。滞納者は処払いとなる。

法律は厳格で、その施行はまるで湿った薪を束ねるようにキッチリと峻厳だ。会計事務は厳格で入出金の金額に応じて定まった規則があり、僅かな金額でも役人が掠め取ることはできない。明朗で厳格な制度といえる。

 夜の9時からは外出禁止となり、街に人影を見ることはない。1時には人足が家々を回り糞尿を集め「汚器(おまる)」を掃除する。6時になると車を引いた人足が家々を訪ねゴミを回収する。家々が軒を接するように建て込んでいるが、ゴミは全く見当たらない。

 これは欧州の制度を、中国人の生活様式に沿って厳格に定めたからだ。上海と香港で、その一斑を認めることが出来る。(2月27日)――

 殖民地となって僅かに40年ほどしか経ていない香港の躍進の秘密を、どうやら岡は欧州式の厳格な法律に基づく中国人の管理方法(法治)に見出した。蓋し慧眼。《QED》


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