――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港52)
マクレホース以降、エドワード・ユード(漢字表記で尤徳:在任は1982年~86年)、デイビッド・クライブ・ウィルソンエイカーズ(衛奕信:1987年~92年)の外交官出身の3人の総督は、中国政府との関係構築を模索するために送り込まれたとの見方もある。
ということは、イギリス政府は当初からスムースな返還を模索していた。これを直截に表現するなら、香港を可能な限り高く売りつけて撤退しようと。いわばロンドンは香港を高く売り抜こうとした。これに対し北京は香港を安く買い叩き、あわよくば居ぬきの香港をタダ同然で手に手中に収めたかった。であればこそ、そこに香港住民の意志が反映されることはありえない――これが1997年6月30日深夜をゴールにした両国政府の返還交渉の一面の真実だったと思う。
マクレホースの場合、おそらくは本国政府の意向を十分に組みつつ香港の“資産価値”を高めることに務めた。そのことが「香港の黄金時代」に繋がったに違いない。
第2次大戦後に漢口領事、第23代香港総督顧問(1963年)、外務大臣・殖民地大臣私設秘書(1965年~67年)、駐サイゴン(南ヴェトナム)大使(1967年~69年:「香港暴動」の時期に当たる)を務めた後、1971年11月、彼は第25代総督として着任する。前後4回再任されたことで82年まで総督を務めるが、この間、本国の首相がエドワード・ヒース、ハロルド・ウイルソン、ジェームズ・キャラハンだったことが、彼流の香港統治に効果的に働いたとの見方もある。
一説には、香港総督には理論上は広範な権限が与えられている。だが実際はイギリスと中国の両政府のみならず様々な制約がある。だが総督が有能で殖民地政府(政庁)中枢との連携に加え本国政府関係部署の支持を得たなら、相当の行政効果を上げることができる。
それはまた香港住民からの支持にも繋がり、香港社会の安定と繁栄に結びつくとも言われる――であるとするなら、マクレホースは香港総督としては最適任だったことになる。いわば殖民地・香港は1970年代に理想的な総督を迎えたわけだ。
たしかにそうだろう。中華人民共和国香港特別行政区行政長官も「香港基本法」では広範な権限が与えられている。だから“剛腕”を発揮して「香港第一」を掲げ香港住民の支持を背景にすれば中国政府に盾突くこともできるだろう。だが、董建華(1997年~2005年)、曽蔭権(2005年~12年)、梁振英(2012年~17年)、林鄭月娥(2017年~現在)と歴代長官を並べてみても、共産党政権の代理人の域を一歩も出ることはない。その姿は、殖民地時代の歴代総督の姿にも酷似している。
1843年の初代香港総督から数えて25代目、じつに128年が経過した後にマクレホースが登場した“前例”に倣うなら、「港人治港」が達成されるような香港が生まれるまでには128年の歳月を経なければならないということか。とはいえ、その前提には宗主国であるイギリスの国内事情が大きく作用していたことは言うまでもない。こう考えれば、真の「港人治港」に至るには共産党政権が大変貌を遂げるような驚天動地の事態の発生を待たねばならない、ということだろうか。
閑話休題。
マクレホースが就任早々に着手したのが、タダ飯喰らいの役人の大量整理だった。それまでの総督の専用車利用に倣うことなく、総督府から議会までを歩いた。もちろん僅かな距離だが。普段着のまま街に出て、人口過密地区にも足を運び、一般住民と気さくに交流した。住民から大いに迎えられてことが、一面では従来の殖民地体制に大きな変革をもたらすことになったわけだ。いまでも香港の農漁村のレストランに入ると、店主や客と歓談するマクレホースの楽し気な姿を捉えた色褪せた写真を目にすることが・・・ある。《QED》