――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘76)
「國民黨の再分裂」(昭和2年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房)
かつて国民党をレモンに譬え、スターリンは「国際共産主義者はそれを搾り切っても構わない。搾り切ったら後は、自由に投げ棄ててもよい」と呟いたらしい。だとするならスターリンの“箴言”のままに、国民党左派は破滅の途に迷い込んだことになる。だからこそ、孫文は連ソ容共によって国民党をレモンとして国際共産主義者に提供し、搾るがままに任せた張本人と言っても強ち的外れでもなさそうだ。
じつは孫文の右腕としてソ連、共産党との一連の交渉を担当していた廖仲凱が1925年に暗殺されて以降、国民党は労働・農民運動の指導者を欠いたままだった。加えて「孫文以來、國民黨の傳統なる政權病が祟を爲し」たことから、共産党の跳梁を招いてしまった。「國民黨の傳統なる政權病」とは言い得て妙だ。だからこそ「今頃になつて共産黨の無産者間に扶植した勢力及びその當然の結果を呪ふのは、全然間違つて居ると見ねばなるまい」と、橘は詰る。
国民党は共産党に対して不用心が過ぎたと考える橘は、国民党左派の中心人物である汪精衛の言動に注目する。
じつは汪は、1926年11月にコミンテルンが発した「中國革命は勞働者・農民及び小資産階級を基礎とする」との宣言を「これは正しい」と認めたうえに、「三民主義の目的は、個人資本主義を国家社會資本主義にするにあ」り、国民党が目指す本来の政治体制は「全黨員の意思に從ひ民衆の利�を代表して一切を執行する」ところの「党国政治」でなければならないとした。かくして汪は?介石が南京に構えた国民政府を、軍が国を治める体制――いま風に表現するなら北朝鮮の「先軍政治」となろうか――として否定したのである。
橘に依れば、以上に見える汪精衛の政治姿勢は「孫文の晩年の思想及び方法を標準とする限り」、「總て正しいとせねばならぬ」ものであり、その一方で?介石は「國民黨の異端者であり、レーニンやスターリン氏は國民黨の同志である」とも皮肉った。
どうやら、当時の汪精衛は国民党左派のさらに左に位置するだけでなく、なにやらコミンテルンの傀儡と言えそうだ。その後、共産党と手を切って?介石と手を組んだり袂を別ったり。後に日本側は汪精衛を?介石から切り離し「和平工作」を進めるが、その政治的遍歴からして“政治的情緒不安定”と判断するしかなさそうだ。一貫不惑というよりは、一貫惑々とでも表現すべき性向を、日本は意に介さなかったのか。汪精衛を巡る一連の「和平工作」についてはいずれ考えることにして、「國民黨の再分裂」を先に進みたい。
汪精衛による?介石批判は「當つて居る」。だが彼は自らの足元を見失っていると、橘は批判する。それというのも汪精衛らの権力基盤を支えているのは、国民党内部の唐生智(湖南軍閥)と馮玉祥(西北軍閥)ら軍閥だからだ。国民党左派を支え武漢国民政府の後ろ盾となっていた軍閥にとって、やはり軍閥を目の敵にする共産党と手を組むわけにはいかない。だから唐生智や馮玉祥は共産党と手を切れと国民党左派に逼った。彼らの後ろ盾を失ったら、武漢における国民党左派の影響力の激減は避けようがない。
唐生智が動く。麾下軍隊内の共産党員を排除し、武漢総工会を武装解除した。
ここから事態は国共合作崩壊に向け急に動き出す。
1927年6月30日には汪精衛と共に国民党左派を指導していた�演達が「告別書」を、18日には孫文夫人の宋慶齢が「引退宣言」を発表し、国民党左派からの離脱を明らかにした。7月13日になると、共産党中央は10日にコミンテルンが発していた指示に従って武漢国民政府からの離脱を宣言し、ここに国共合作は崩壊する。
合作と聞こえは良いが、やはり国共両党の間は所詮は水と油でしかなかった。《QED》