――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘70)「中國共産黨の新理論」(昭和3年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房)

【知道中国 2110回】                       二〇・七・丗

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘70)

「中國共産黨の新理論」(昭和3年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房) 

では、なぜ蔣介石が「資本家勢力の過度の膨脹を牽制する」ような行動に踏み出せなかったのか。それは彼が孫文の忠実なクローン人間であり、その孫文自身が清朝打倒後の国家建設に向けての具体的な全体像を描いていたとは到底考えられないからだ。

つまり北一輝が「孫逸仙の根據なき空想」と揶揄したように、孫文は終始一貫して“カラッポ”だったに違いない。だから孫文のクローンに、一貫した政治哲学を求めるのはムリな相談というもの。蔣介石もまた“曖昧模糊たる渾沌”だっただろう。

日中戦争中、中国戦線米軍司令官兼蔣介石付参謀として近くに在りながら蔣介石とは決して心を交わすことのなかったJ・スティルウェル将軍は、蔣介石を徹底してこき下ろした。その一例を彼が著した『中国日記』(みすず書房 昭和41年)で拾ってみると、

――「ピーナッツ」「小男のでくの坊」「小男の成上がり者」「握り屋で、偏屈で、恩知らずのがらがら蛇」「愚鈍で強情」「チビのばか野郎」「底抜けの愚鈍さ」「小さながらがら蛇」「ゲシュタポと党諜報機関によって支えられた一党政府の長」「強欲、汚職、えこひいき、増税、幣制の崩壊、おそるべき人命浪費、あらゆる人権の冷淡な無視」「名義上の頭首」「その資格と業績に比して度はずれなアメリカでの宣伝によっておしたてられている」――

この悪罵の羅列は同將軍の狷介な性格にも起因するだろうが、「名義上の頭首」との形容が象徴しているように、やはり蔣介石は“軽い神輿”だったということか。

1920年代末以降の蔣介石の歩みを、当然のように昭和3(1928)年に「蔣介石」を記した橘が知る由もない。だが、蔣介石は国家の指導者としては「名義上の頭首」でしかなく、一貫して孫文のクローン人間であり、個人的行動は「唯共産黨員及び左翼的國民黨が孫文の遺産たる國民黨を亡ぼすであらうと云ふ獨斷に出發した義憤及び特別の負けぬ氣」に支えられたことを正確に掌握できていたなら、満州事変前後以降の我が国の対中政策も違った路線を歩むことができたのではないか。

あるいは、その後の蔣介石の行動――西安事件前後の不可解な行動、国共合作による抗日戦争、汪兆銘と同政権関係者に対するコンプレックスの裏返しのような執拗極まりない冷酷な仕打ち、国共内戦敗北を機とする台湾への逃避以後の「一つの中国」への強い拘り、「中華民国」という国名への固執、国連からの“栄光”の脱退など――を振り返った時、客観情勢に逆行する不合理極まりない判断、無理に無理を重ねたような軌跡が「孫文の遺産たる國民黨を亡ぼすであらうと云ふ獨斷に出發した義憤及び特別の負けぬ氣」によって支えられていたのだろう。ナンとかの一つ覚え、とまで言わないが。

たしかに国家指導者としての蔣介石の一生には毀誉褒貶はある。だが、孫文の「忠實にして謙虛なる弟子」として人生を見事なまでに全うしたと言っておきたい。決して皮肉ではなく。その孫文亡き後の空白を宋美齢が埋めた、ということか。

それにしても、である。満州事変前後以降の我が国における対中政策担当部署が蔣介石の“正体”を孫文の「忠實にして謙虛なる弟子」であると見抜いていたなら、我が国が大陸の広大な泥沼に引きずり込まれ悪戦苦闘を強いられることもなかったろうに。

孫文、蔣介石と重ねれば次は毛沢東となる。そこで橘が毛沢東をどのように見ていたかを知りたいところだが、残念ながら毛沢東への言及は極めて少ない。それというのも、橘が関心を持っていた当時の共産党において毛沢東は主流ではなかったからだ。

現に我われが接する共産党の歩みは、毛沢東正統史観に基づいて粉飾・誇張が加えられている。そこで同時進行で変化する共産党に対する橘の分析を通して、“毛沢東以前の共産党”を捉え直すと共に、当時のチャイナウォッチャーの眼力の程を見てみたい。《QED》


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