――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘60)
「孫文の東洋文化觀及び日本觀」(大正14年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房)
この論文の主題である「昨年〔大正十三年〕十一月二十八日に神戸で日本人に對して講演した『大亞細亞主義』」については、後に詳しく論じたいので今は先に進みたい。
橘に依れば、「三民主義の第二項、即ち民權主義」は「所謂デモクラシーの主張であ」り、「デモクラシーの方法論の中心を成すものは『會議』」だそうだ。孫文は『建國方略』で「凡そ事理を研究して之を解決する」ために「三人以上で一定の規則に從ふ」ものが「會議」であり、「國會の立法、郷黨の修睦、學者の講文、商工の籌業から其他一切の臨時集會に至る迄、多數の智能と力とを集めて經常及非常の事件に對應する方法」のすべを「會議」とする。これを受けて橘は、「孫氏は『會議』の方法に依りてのみデモクラシー即ち彼の所謂民權主義の社會が完全に建設せられるものであると考へて居るのであらう」と綴った。
民権主義の目標は「先づ第一に共和政治の實現であ」り、「第二の目標は、縣治の徹底的民衆化」である。
橘は「孫氏は、縣を以て自治の單位とし、〔中略〕人民に最高の政治權力を賦與したいと希望し」、「三民主義の最後の一項である」「民生主義は之を普通の言葉に直せば國家社会主義であ」ると説く。そして民生主義、つまり孫文流の国家社会主義は「地權平均」と「産業公有」を柱とすることになる。
要するに橘の三民主義理解は、「『覇道的』の西洋文明に對し『王道的』の東洋的文化を世界の表面に打ち立てようとする」ところの民族主義、「共和政治の實現」と「人民に最高の政治權力を賦與」するための民権主義、国家社会主義である民生主義、となる。
以上の考えに従って橘は孫文の行動と発言を論じるが、時折挟まれる「偉大なる革命理想を懷く孫氏」とか、「此の大革命家」とか言う類の“賛辞”に認められるように、橘は内外諸要因に依って孫文の「偉大なる革命理想」の実現が阻まれたとでも言いたげである。
孫文は革命家である。現実の革命闘争の中で勝ち抜かない限り、「偉大なる革命理想」を持とうが無意味に近いのではないか。それはスターリンに敗れ異国で無残な最期を遂げたレオン・トロツキー、毛沢東によって死へと追い立てられた林彪、同じく毛沢東の指図で治療もされないままに無残な死を遂げざるを得なかった劉少奇にも通じることだろう。
北一輝による「孫逸仙の根據なき空想」の“一撃”を前にしたら、橘が描く孫文の理想化は余り褒められたものではない。とは言うものの、おそらく大正末年から昭和初年にかけての日本における孫文評においては、北のそれは異端であり少数派だったに違いない。
さて肝心の大亜細亜主義論である。
1924(大正13)年11月22日、孫文は上海を発って日本に向かった。自分の体調からして余命の短いことを感じ取っていただろう。ならば期するところがあったはずだ。
翌23日に長崎に到着するや船中で同地で学ぶ留学生を集め、日本各地のみならず世界の各地で学ぶ留学生に働きかけて団体を組織し、三民主義に沿った政治の近代化への貢献を求めた。
24日には神戸入りし、東京・大阪・神戸の国民党党員による歓迎會では、「中國内亂之因」と題する講演を行い、証拠を挙げながら軍閥の背後に隠れた列強の跳梁が中国の統一を疎外している旨を語った。これに対し橘は孫文が講演中に「掲げた事實だけに就いて見ると、彼の提起した證據を輕々しく信ずる事が出來ない」と、一定の疑念を示している。
28日、孫文は日本人聴衆に向かって前後2回の講演を試みた。1回目が「理論的には所謂王道思想を其の根據」とする「大亞細亞主義論」であり、残りの1つは「中國が不平等條約の廢止に努力するに就て日本の援助を乞ふと云ふ趣旨」のそれであった。《QED》