――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘61)「孫文の東洋文化觀及び日本觀」(大正14年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房)

【知道中国 2101回】                       二〇・七・仲二

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘61)

「孫文の東洋文化觀及び日本觀」(大正14年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房) 

 橘に依れば「理論的には所謂王道思想を其の根據」とする「孫文氏の大亞細亞主義は、要するに白人勢力との對抗を意味するものであり、第一義としては西洋文化に對して東洋文化を強調するにある」となる。

 以下、橘は孫文の演説を引用しつつ、自らの考えを綴った。

 ――西洋人は「西洋以外に正しく且つ高い文化は人類の間に發生し得ないと信ずるのである」が、西洋文化の本質は「專ら武力を用ゐて他人を壓迫する」ものでしかなく、「我々東洋人が昔から輕蔑するところの覇道文化に過ぎない」。「覇道は其の文化的價値に於て王道の下に位すべきものである」。だから孫文は「窮極は西洋文化は東洋文化に對して席を讓らなくてはならぬと斷言する」。

「孫氏に據れば、亞細亞の文化は王道文化であり、王道的文化は道德を以て人類を感化するところの精神的文化であり」、それゆえに「功利を第一義とするところの歐洲の物質文化と對立するものである」。

 孫文は王道的文化と覇道的文化の違いを異民族待遇の違いに求め、かつて中国に服していたネパールは英国に征服された後も、「民國元年に至る迄中國に來貢することを怠らなかつた」ことを例に、中国の王道の感化力が如何に優れているかを説いた。

 だが史実は孫文の説明とは異なっている。じつは乾隆帝57(1792)年に清朝軍がヒマラヤを越えてネパールを侵略した結果、ネパールが清朝に対し朝貢の礼を執ることになったわけであり、民国元年に朝貢を取り止めたのは、この年に朝貢すべき相手である清朝が崩壊したからである。つまり清朝は王道を以てネパールを遇したわけではなく、ネパールもまた清朝が示す王道に応えたわけでもない。有態に言って清朝が強大だっただけだ。

 ここで橘は「孫氏の所謂王道外交が必ずしも仁義道德乃至感化に終始して居るものでないことは明白であ」り、「特殊の場合殊に中國の國力が強くなつた場合には決して武力を用ゐるに躊躇しなかった」とした後、孫文の主張は「單なる孫氏の主觀に止るか、或は學者の理論や歷史家の潤飾を無批判に受け入れた結果」であり、「幻想を描き出したものに過ぎない」と記す。

 最後に「日本民族なる諸君は、既に歐米の覇道文化を攝取し、且つ亞細亞の王道文化の本質を具有するところの民族である。今後諸君は世界文化の前途に對して、西洋覇道の鷹犬となるか、或は東洋王道の干城となるか、諸君の愼重なる撰擇を望む所以である」との孫文演説の最終部分を引いた後、日本は「孫氏も稱讚して呉れた通りに、東洋文化の本質に加へて西洋文化の手段を、何れも不充分ながら具備して居る」から、「東洋文化即ち孫氏の所謂王道が西洋文化と對等或は其れ以上の價値を具有するものであれば、我々日本民族は『王道對覇道』の戰に喜んで先陣を承ることが出來る」と結論づけ、「王道論の註釋及批評」と題し、「王道なるものが果して何程の價値を持つか」に論を転じた――

 ここで「王道論の註釋及批評」に移る前に、現時点での疑問を記しておきたい。はたして東洋=王道=「道德を以て人類を感化するところの精神的文化」であり、西洋=覇道=「功利を第一義とする」「物質文化」と固定的に捉えて正しいものか。濃淡の違いはあれ東洋にも覇道があれば、西洋にも王道があったはずだし、また、そう考えるべきだろうに。

たとえば現在の「專ら武力を用ゐて他人を壓迫」する習近平政権を見れば、「中國の國力が強くなつた場合には決して武力を用ゐるに躊躇しなかった」ことが納得できる。たしかに習路線は「道德を以て人類を感化するところの精神的文化」ではない。

やはり王道である東洋は覇道に奔らずという固定観念こそが大問題なのだ。《QED》


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