――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(35)
上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)
1896年にフランスとの間で契約が締結された?越(昆明=老開)鉄道を皮切りとして、1916年までの間に、イギリス(7路線)、白耳義シンヂケート(3路線)、フランス(2路線)、四国財団(2路線)、アメリカ(5路線)、日本(1路線)と、「揚子江流域の鐵道は、悉く列強の手に委せられ、列強は此の利權を基礎として牢乎たる勢力を扶植し、若し此の情勢を以て推移したならば、支那は分割乎、然らずとも、鐵道の共同管理は是れ當然の運命であつた」。
鉄道建設に関する借款問題が「辛亥革命の導火線とも稱すべき」動きを誘い、やがて革命が勃発し清朝が崩壊し、中華民国が生まれる。だが、全国混乱は続く。この機を逃すまいと、「邊境の疆域至る所に蜂起した。就中蒙古及西蔵の兩域は率先して自主獨立を宣言する」。この動きを見透かしたかのように、「露、英の巨腕が一は蒙古に向つて、他は西蔵に對して振るはれたのは言ふまでもない」。
辛亥革命を達成し中華民国を打ち立てたとはいえ、財政危機という現実は避けようもない。そこで革命のキッカケとなったはずであった「鐵道利權は、續々として革命政府によつて列強に濫與さらるゝに至つた」。そのまま第1次世界大戦が勃発しなかったなら、鉄道利権をテコに列強による搾取・支配構造は定着化しただろう。
だが、戦争によって、ヨーロッパ列強は中国利権どころではなくなってしまった。その間隙を衝いて「支那に於て其の勢力を伸張しめたものは、日本と米國とである」。
日本は「日英同盟の誼によつて聯合國に参加し」、東洋におけるドイツの権益を押さえた。その一方で「工業は振興し、商圏は擴張せられた。一躍して債權國となり」、「盛んに支那の借款に應じ」、「此の勢に乘じ對支二十一ケ條を提出した」。その結果、「猛烈なる反對が四方から起つた、排日を叫び、不賣同盟が至る處に勃發した」。
そんな「日本より以上に其の勢力を支那の上に植付けたものは米國」である。じつは第1次世界大戦参戦によって莫大な富を得たことから、アメリカが進める「資本主義的侵略政策は、其の有効な投下地を求むるに汲々であつた」。であればこそ、「彼の眼が、特に廣莫たる老大支那の上に注がれた事は、之れ當然の成行と云わねばならぬ」。そこで後発国としては、先行していた「各國に向つて、其の勢力範圍を撤廢させ、門戸を開放せしむるより外に途は無」かった。
戦争の結果、「歐州の列強は疲弊困憊」の極にあり、アメリカの敵ではない。「東洋に於ける障害は一日本あるのみ」となったところで、「果然一九一七年十一月、彼は日本に向つて、支那の門戸開放、機會均等を誓約せしめた」。この石井ランシング協定をキッカケにして「米國の弗費は、自由に支那を闊歩するの見込みがついたのである」。また「聯合國側に組して獨墺に宣戰」したことで、「支那の得たる収穫は非常に大なるものがあつた」。
「(辛亥)革命後、洪水の如く全國に�流せる思想上の變化は、歐州大戰の結果更に徹底し、讀書生は勿論、店頭の小僧さへ、自由を論じ、民主、共和を議するに至つた。婦人の間には參政權の要求が叫ばるゝに至つた。就中米大統領『ウ井ルソン』の提唱せる民族自決主義は、束縛、侵犯、凌辱、四面梗塞の支那に取り天來の福音だつた」のである。
このような状況下で始まったゆえに、「支那は此の機(ヴェルサイユ講和会議)に於て、あらゆる利權を回収せんと猛烈なる活動を開始し」、「遂に支那は、我が日本が多大なる犠牲を以て攻略したる山東一帶の利權を無代償を以て還附せよと暴言を吐くに至つた」。「之れに對する日本の拒否は米國の煽動と相俟つて果然支那の排日熱を激發し、其の勢は燎原の火の如く全國に廣がつた」のである。やはり排日の背後にアメリカあり、なのか。《QED》