――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(35)
上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)
「英、佛、獨、露、米の諸國が、恫喝、奸計あらゆる秘術を盡し、着々其の地歩を占めつゝある」の一文に「中」を加え、「憐れむべし、其の國策は常に動揺して定まる所なく、〔中略〕退嬰自卑、常に英國の反感を慮つて、敢えて求むる所がなかつた」の件に「英國」に代わって「関係諸国」の4文字を置いたら、あるいは現在の日本外交の実態を言い当てているようにも思える。
つまり「英、佛、獨、露、米、中の諸國が、恫喝、奸計あらゆる秘術を盡し、着々其の地歩を占めつゝある」にも拘わらず、「憐れむべし、其の國策は常に動揺して定まる所なく、〔中略〕退嬰自卑、常に関係諸国の反感を慮つて、敢えて求むる所がな」い。ということは、我が外交は安倍首相が「脱却」を掲げた「戦後レジューム」を遥かに越え、一気に一世紀ほど昔の大正末年に“先祖返り”したことになりかねない。じつに情けない限りだ。
それはさておき、「常に英國の反感を慮」りながらも手を拱いていたわけではない。僅かに一路線ではあるが、「江西省城南昌より、揚子江岸の一港九江即ち昔の潯陽江頭に至る」ところの南潯鉄道に関係していた。
だが、残念ながら「他國の如く、巧妙なる外交的壓力と、絶へざる野心の動きに依つて贏ち得たるものでは無い」。であればこそ、「此れには何等政治的意味を有せざる事は明かである」。いわばカスを掴まされたわけだ。これまたナサケナイこと甚だしい限りである。
さて日本が押さえた南潯鐡道だが、延伸に加え他路線との接続を果してこそ機能を発揮する。だが、それが日本にはできない。あるいは「英國の反感を慮つて」いたのか。この路線は「殆ど日本借款の下に經營され居るに當り、(関連する)南昌萍郷線は當然我勢力下に歸すべき十分の理由あるにも拘らず」、なんと「英國は窃に運動を進めて、一九一四年、突如」として日本の利権を掠め取ってしまった。盗人猛々しいのが国際政治というものだ。
振り返って見れば日英同盟は、ロシア帝国の極東進出に対抗すべく1902年に結ばれ、以後、第二次(1905年)、第三次(1911年)と継続更新され、1921年のワシントン海軍軍縮会議による四カ国条約成立に伴い1923年8月に失効している。つまり1914年当時は、まさに日英同盟は有効だったはず。だから日本は「常に英國の反感を慮つて」いたに違いない。だが、当然のことながら、英国は端っから日本の「反感を慮つて」はいなかった。これが国際政治の現実と言うものだろう。
「我日本は(関連する)江西鐵道を政治的に利用せんとするものでは無い。唯其の開通の一日も速かならん事を冀ふものである。然るに、此の利權が英國の手に収められてより既に十年、鐵道建設に對して、果して幾何の努力が拂はれたのであるか。我等は其の誠意を疑はざるを得ない」。やはり「諸国民の公正と信義に信頼して」いるだけではダメなのだ。
たしかに「鐵道建設の急務は支那に於て最も深く感ぜらるゝのである」。それというのも鉄道が開通してこそ「資源の開發、文化の普及を期待し得」るからだ。だが、「支那の鐵道が列國の借款に依つて縛られて居る間は到底之を望む事は出來ない」。だから日本は「政治的に利用せんとするものでは無い。唯其の開通の一日も速かならん事を冀ふ」しかない。ところが、である。この日本の姿勢は列強間に共通する“世界標準”ではない。だからこそ、列強は「日本はヨカラヌこと考えているのではないか。我われを出し抜くのではないのか」と訝しがる。そこで、訳も判らぬうちに“悪者”にされてしまうことになる。
歴史が物語っているように、日本人はこの辺の呼吸を呑み込めないし、駆け引きが不得手、いや出来そうにない。切った張ったが常態の国際政治の場は、日本人が示す誠心誠意なんぞは下世話に言う「屁の役にも立たない」。そう、骨折り損のくたびれ儲け。《QED》