――「支那を亡すものは鴉片の害毒である」――上塚(26)
上塚司『揚子江を中心として』(織田書店 大正14年)
この時点で興味深いのが、ロシア、ドイツ、イギリス、フランスに倣ってイタリアが浙江省三門湾の租借を要求したものの、清国側から拒否された事だろう。腐っても鯛である。いくらなんでもイタリア如きに嘗められて堪るかというのが、「眠れる豚の國」にとっての最後の意地だろうか。
とはいえ「眠れる豚の國」の命数は尽きつつあった。
「前門狼を追うて、後門虎を迎ふ、支那の事態は之より愈困難となつて來る」。こうして「列國は自主獨立の支那に對して、勝手に租借地を限定するに至つた」。かくして次に起こる問題が各国の「勢力範圍の劃定であらねばならぬ」ことになる。
先ずイギリスは、広東や雲南においてフランス牽制を可能にする利権を求めた。その結果、インドシナを拠点とするフランスに対応するため、1986年7月に清国との間で「緬甸は支那の覊絆を脱して、完全に大英帝國の支配下に移る」との条約を締結した。加えて「其の對支貿易額が、他の列強に優越している間は、支那海關の事務の統括權を有し、税關の總税務司を英國人より選任すべき事の優先權を得た」のである。
ロシアは1898年に旅順・大連の租借権を得て、東三省(遼寧省・吉林省・黒龍江省)を勢力範囲に収めた。これに刺激されたイギリスは、さらに長江流域一帯と四川省西部に食指を伸ばす。
1899年、ロシアとイギリスは「スコット・ムライヨフ協約」を結び、「英國は長城以北に於て、鐵道敷設權又は鑛山採掘權を求むべからず」「露國は揚子江流域に於て同一の利權を求むべからず」と定めた。
ドイツは1898年に占領した膠州湾を足場に、山東省一帯に勢力圏を確保した。
このようにして日清戦争敗戦を機に、英・露・仏・独の間で「租借地獲得、勢力範囲の劃定が、支那帝國の隨所に起つ」た結果、自主独立国であるはずの「支那國は、豺狼飽きく無き列國の爲めに殘る隈なく蠶食せらるゝに至つた」のである。
ここまで翻弄されたなら反動が起きないわけがない。
日清戦争における「思はざる大敗」に加え「白皮猪(けとう)」と蔑称していた西欧列強による蹂躙は、「支那人の惰眠と尊大心とを、破鐘の如くに警醒した」。かくして「外國人を國外に放逐し、其の事業を根絶せしむる事に依てのみ、國内の安寧秩序を保ち得るものと考慮し、暴力を以て、外人並に其の事業を除去せん事を企て」る保守派が生まれ、これに対抗する勢力が結集して進歩派を形成する。彼ら進歩派は、日清戦争における「日本の勝利は、日本が泰西文明を心底より輸入應用したからである」とし、亡国の危機を挽回するためには「先ず第一に泰西文明を採り入れねばならぬ」と主張する。
だが客観的に見るなら、保守派が進歩派を圧倒し、「大多數の國民は無自覺の裡に在つたのである」。だが進歩派の動きは燎原の火の如く燃え盛り、やがて「支那識者の覺醒を促し、各種の學會、結社は至る所に續出し、救國の叫、自強の索は、先覺者の口より、熱烈に高唱さらるゝに至つた」。加えるに「外國書の翻譯は盛んに行はれ、多數の學生は、外國殊に我が日本に向かつて、潮の如く殺到した」。
かくして回天の気運が「若く新しき帝王」たる光緒帝の「胸に響かずには措かなかつた」。「國運の日に非なる、社稷の年に危うきに憂慮し、乾綱を振作して、一度は康熙、乾隆の盛時を再現せんとの切ない志が、いみじくも若き皇帝の念願となつて來た」のだが・・・。
清朝帝室内最高権力者の西太后を戴く保守派は老獪だった。「未だ多年の因襲的宿弊より覺むる能はず、『閉關自守』を叫」び、光緒帝の進める改革を頓挫させたのであった。《QED》