――「臺灣の事、思ひ來れば、感慨無量・・・」――田川(8)
田川大吉郎『臺灣訪問の記』(白揚社 大正14年)
台湾人は日本の大学で学ぶも「唯一功名の門たる官界は、彼等の前に堅く閉じ」られたまま。「こゝに至つて、彼等の不平が勃發するのは最も自然でせう」。なぜ彼らは「かく遇せらるゝかと言へば」、「彼等は戰敗者である」から。戦勝者だから「無理もしてもいゝ、我儘もしていゝ、と、いつた得手勝手な感じが、我(日本人)に在るからでせう」。
「一體、臺灣人は、その文明を、日本に劣つて居るとは、思ふては居りません」。「臺灣の文明は、決して日本に劣つていなゐと、彼等は言ひ張ります」。
台湾の実業家に内地人実業家との提携を勧めるが、彼らは異口同音に「私達は、それを望んだのです、けれども、今は、それを悔ゐてゐます、私どもは殆ど一人の信頼するに足る日本實業家をこの土地に見出しません」。最初は信じて掛った彼らだが、「欺かれたと申し、裏切られたと申し、盗まれたと申し、要するに利益は内地人の物、自分達は、踏まれたり、蹴られたり、散々な目に遇はされた」と言うのだ。
この反応に対し、「日本人は、省みて、自ら戒め、自ら改めねばなりません」。考えるに「米人の、日本人を差別待遇するや、日本人は、烈火の如く怒りました」。だが台湾に目を転ずれば「一方は傲然とした治者、一方は被治者、そこに、踰ゆべからざる障壁を設けて、互いに睨み合つて居り、軋り合つて居ります」。かくて田川は「臺灣人が、何故に不幸であるかの原因、事情を思ふ者は、他の何よりも、先づこれを考ふべきであると思ひます」。「これ」とは「省みて、自ら戒め、自ら改め」ることだろう。
台湾を去るに当たり、台湾の友人からの「血は水よりも濃い、東洋人は東洋人である、相提携して、白人に當らねばならぬ」との声に応え、田川は「日支相提携するためには、日本人は、先づ臺灣人の心を得ねばならない、臺灣人の心を得て、始めて支那人の心を得るのである」。「臺灣人の心を得ると、否とは、單に臺灣一島の事に止まらない、進んで東亞治亂に影響あり、世界の平和にも影響ある」。「臺灣の位地は(中略)日支兩民族の、融和、協調のため、好箇の仲介役たる、いゝ地歩を占めて居るのでありませう」。
「臺灣人にすら親しむことが、できない、領解し、領解さるゝことが、できないなら、到底、支那人を領解し、支那人に領解され、左提右携の、親しい關係を今後に結ぶことは、できますまい」。かくて「臺灣島の事、實に、一臺灣島の盛衰、浮沈、波瀾、榮辱にあるに止まりません」と結ぶ。
日本人の官民の努力が猖獗の地であった台湾を変貌させ、行政・経済・社会・教育・文化などの各方面の近代化を促進した。その典型が烏山頭ダム建設に尽力し、嘉南大圳の水利改善という大事業に身命を賭した八田與一(明治19=1886年~昭和17=1942年)であり、抗日ゲリラによって起こされた柴山巌事件(明治29=1996年)に命を奪われた日本語教師「六氏先生」だ――これが今に語り継がれる“台湾物語”だろう。
だが、田川の綴るように日本官民の台湾住民に対する振る舞いが居丈高で台湾人の不信感を募らせたとするなら、従来から伝えられてきた台湾に対する日本人の自己犠牲にも近い貢献は果して再検討を要するのではなかろうか。
ここまで発言する田川の思想的背景を知りたいところだが、『臺灣訪問の記』の末尾に配された版元の白揚社の出版書籍の宣伝――「エンゲルス著 堺利彦譯『空想より科學へ 空想的科學社會主義』」、「ヘルマン・ゴルテル著 堺利彦譯『唯物史觀解説』」、「マツクス・べーバー原著 西雅雄譯『マルクスの生涯と學説』」――を目にすると、白揚社という出版社の思想傾向がある程度は判断できる。それにしても『臺灣訪問の記』が伝える台湾における日本人の倨傲振りの裏側から、「台湾に生まれたの悲哀」が聞こえてくるようだ。《QED》