――「浦口は非常に汚い中國人の街だ」――�田(3)
�田球一『わが思い出 第一部』(東京書院 昭和23年)
�田は「ビラを書いたり、工場の中に飛び込んで、勞働者の間で宣傳をやつたり、ストライキの相談にあずかつたり彼らと共に行動する方が得手であつた。その他には爭議の交渉をやつたり、裁判所で判事や檢事と鬪うのが得意であつた」が、語学などは不得手だった。だが、極東大会への出席は「指導者からの話でもあり餘り行き手がないということだから喜んで引受けた」とのこと。とはいえ、「行き手があまりなかつたのもまた指導者が彼らの尊重している同志をやりたくなかつたのも理由のあることだつた」と記すことも忘れてはいない。�田は、当時の日本共産党指導者に嫌われていたということか。
外国船舶が並んだ上海埠頭を目にした�田は、「帝國主義の狂暴さを示し、中國民族を奴れい視している象徴が、上海の大玄關にあつた」と記した後、「まるで蠅の群」のように屯すジャンクを目にして「中國固有の力は全くこの片隅に閉そくされているかつこうであつた」と憤慨する。
「當時の上海は平和な街だつた」。北京では日本やイギリスを後ろ盾にした軍閥の抗争、広東では孫文率いる国民党と反国民党軍閥の騒乱が続いていた。だが上海を支配している軍閥が「中立的な立場に立つて平和を維持しようとつとめていたことと、英米日の三國がここを中國全體えの商品の入口として平和を確立することに熱中していたからである」。
だが、「この平和の中には、國際的な權力にたいして大きな反對的要素がスクスクを育つていた。それは――上海が工業的にまた交通的に發展するに從つて生じてくる勞働者階級の成長であつた」。わけても、その中核は「海員と港灣勞働者」であった。
「同志チャン・タイ・レイ」に連れられ、「日本租界の西はずれのスコット路に面した小さな家をたずねていつた。その家の主人はアメリカ系のユダヤ人で、夫婦と五つぐらいの可愛いい娘の三人家族」だつた。その家の客間で、「上海では最古参の同志で、メーリングといふオランダ人」に引き合わされる。�田は「日本の情勢やら日本の共産主義者の活動について彼らに話さねばならなかつた」。
�田は英語が全くダメで、「同志チャン・タイ・レイ」は日本語がダメ。そこで一計を案じた�田は筆談とした。�田が「紙と鉛筆をとり出して漢字を並べて書く」。それを「どんどん通譯する」。「そうしたらとても喜んでまるで遠くから歸つてきた子供を可愛がりでもするように歡待してくれた」という。トッキュウよ、喜ぶのはまだまだ早い!
�田が中国語に通じていたわけでもなさそうだし、日本語⇒漢字の羅列⇒英語の順に訳したとして十二分に意思が伝わったとも思えない。漢字だから通じるだろうなどと考えるのが誤解の始まりであることを、�田のみならず日本人は十二分に心得ておくべきだ。おそらく「アメリカ系のユダヤ人」であれ「メーリングというオランダ人」であれ、日本人なんぞ適当にあしらっておけ、といったところではなかっただろうか。当時の共産主義運動の“真実の一端”が顔を覗かせているような気がする。
さて「お茶のあとでビールが出た」が、それが「新しく栓を抜いたのではなく、飲みのこしらしく、ちつとも泡がたたないのだ」。そこで�田は健気にも「彼らはこんなにまで節約して苦しい黨活動をつずけているのだつた」と感激している。だが、チョッと待て! そこまでして気の抜けたビールを飲む必要はないはずだ。感激屋・�田の面目躍如だが、このような天衣無縫ぶりが後に吉田茂に好まれたのだろう。それにしても素直と言うのか。単純と言うべきか。おそらく海千山千の「同志チャン・タイ・レイ」、「アメリカ系のユダヤ人」、それに「メーリングというオランダ人」からすれば、直情径行・単純明快の�田を相手にすることなどは赤子の手を捻るより簡単だったに違いない・・・ヤレヤレ。《QED》